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西園寺家(さいおんじけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家閑院流の一門で、支流に洞院家・今出川家(菊亭家)・伊予西園寺氏などがある。家名は、4代公経が北山に建立した西園寺(北山殿)に因む〔当初の景観は法成寺をも凌いだというが、南北朝時代には早くも荒廃したため、寺地は足利義満に譲られ、やがて鹿苑寺(金閣寺)が建てられた。〕。家紋は左三つ巴を使用。 == 概要 == 藤原公実の四男通季を祖とする。家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実・雅楽(琵琶)。一条家の家礼。江戸時代の家禄は597石。 通季の曾孫公経は源頼朝の姪全子を妻とし、加えて摂家将軍藤原頼経の祖父に当たることから、鎌倉幕府との関係は緊密であった。そのため、承久の乱に際しては幕府に内応する恐れありとして朝廷によって幽閉されるも、却って乱後に幕府の信任を受けて朝廷の実権を掌握し、太政大臣にまで昇進して家格を高めることに成功した。公経より公宗までは朝幕間の交渉役である関東申次を務めた他、娘を次々と入内・立后させ、天皇の外戚として一時は摂関家をも凌ぐ権勢を振るった。実兼は大覚寺統に接近し、亀山法皇や後醍醐天皇に娘を入れたが、子の公衡以降は反幕府的態度を取る大覚寺統からは離反し、次第に持明院統との関係を深めている。 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が始まると、後ろ盾を失った西園寺家は退勢に陥る。公宗は北条氏残党である北条泰家(時興)を匿い、後醍醐を暗殺して持明院統の後伏見上皇を擁立する謀叛を計画したが、弟公重の密告によって発覚したために処刑され、家は公重が継承した。やがて公重が南朝へ参候したため、公宗の遺児実俊が右大臣に昇って家名を再興したが、往時の権勢は失われた。またこの頃、一族の公俊が家領の伊予国宇和郡に下向して土着し、伊予西園寺氏の祖となった。近世初期の実晴は細川忠隆の長女を御台所に迎えたが、その遺産は家政の基盤となる。以後は当主の夭逝が相次ぎ、他家からの養子が続いた。 幕末に同じ閑院流の徳大寺家から養子に入った公望は、明治維新を経て政治家として活躍した。明治17年(1884年)に侯爵を授けられ、内閣総理大臣を二度経験した後、大正9年(1920年)勲功により公爵に陞爵し、元老として大正・昭和の政界に重きをなした〔公望は、西園寺家の家業である琵琶の演奏が苦手であったが、首相在任中に明治天皇から悪戯半分に「久しぶりに西園寺家の琵琶が聞きたい」と言われたため、宮内省の楽部職員と琵琶の共演をさせられて四苦八苦したというエピソードが伝わっている〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西園寺家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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