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東坊城家(ひがしぼうじょうけ)は、五条長経(正二位・参議・刑部卿、1242年 - 1315年)の次男東坊城茂長(正三位・参議・治部卿、1284年 - 1343年)を祖とする堂上家である。ただし、茂長の時代には「坊城」と称し、孫の秀長・言長兄弟の時代に分立して「東坊城」「西坊城」と称したことから、秀長をもって祖をする考え方もある。西坊城家は江戸時代に2度目の断絶を迎えた〔橋本政宣 編『公家事典』、吉川弘文館、2010年、ISBN P769-770〕が、その後も東坊城家では「坊城」「東坊城」の家名が併用されていた〔伊藤慎吾『室町戦国期公家社会と文事』三弥井書店、2012年、P146-147 〕。 == 概要 == 家格は、半家である。極官は室町時代の東坊城益長(1407年 - 1474年)以降、代々文章博士・大学頭・少納言・大蔵卿等を経て権大納言を極官とする。 家業は紀伝道で、代々天皇の侍読を務めた。歴代当主の中には漢学の才を認められ、改元の際の新年号の候補およびその出典を記した「年号勘文」の提出者となった者も多い。 東坊城家は高辻家から見ると、本来ならば庶流扱いである。しかし、東坊城家の女子からは勾当内侍(掌侍(ないしのじょう)の筆頭)を多く輩出し、同家からは氏長者も出した実績がある。更に、幕末の東坊城聡長(正二位・権大納言、1799年 - 1861年)は武家伝奏に任じられている。 その実績もあって、江戸時代の家禄は菅原氏出身の堂上家では最高の300石であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東坊城家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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