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西安事件(せいあんじけん)は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。 ==背景== 1934年1月8日に欧州旅行から帰国した東北軍(zh)首領の張学良はドイツ・イタリアの民衆が心を合わせて指導者を擁護しながら復興を遂げていることに感銘を受け、帰国するやいなや「われわれも領袖を擁護しなければならない」と語り、中央の蒋介石支持を明らかにした。9・18事件後、東北の地盤を失った張学良は蒋介石から河南省、湖北省、安徽省の剿共副総司令に任命され共産党軍の長征による北上を阻止する任務についたが〔、1935年9月には指揮下の第67軍の第110師団が壊滅的損害を被り師団長・参謀長を失った。1935年10月には西北剿共副総司令に任命され西安に司令部を進めたが、指揮下の第57軍の第109師団の師団長が捕虜になるなど損害を出し続けていた〔〔。このような状況に置かれていた張学良は楊虎城に剿共が嫌になったと打ち明け、1936年に入ると共産軍との接触を始めた。1936年4月9日、張学良の働きかけによって周恩来・張学良会談が延安で開かれた。 西安の地方軍閥である楊虎城(第17路軍総指揮)は、中央軍・共産軍どちらの進出も望んでおらず、共産軍と相互不可侵協定を結んでおり、西安に進出した張学良に司令部を提供することもなく、蒋介石の剿共作戦に批判的であった〔。 共産軍は中国政府軍の剿共戦により21万人から7万人まで勢力を弱め、陝西省・甘粛省の2省に追い詰められていた。このため、蒋介石は共産軍を殲滅する最後の軍議を西安で開き、20個師団と100機を超える航空機を投入して2週間から1月間以内に8年間にわたる剿共戦を終わらせようとしていた。蒋介石は将軍たちに「剿匪の完全成功まで、いまや最後の5分間の段階にきている。各自はこの機会を逃すことなく、勇敢迅速に行動してほしい」と繰り返し命令していた。 日本との間には、1936年9月23日に上海共同租界内で日本人水兵射殺事件が前年度の中山水兵射殺事件の解決をみる前に再び引き起こされ、9月24日に蒋介石は臨戦態勢をとるよう軍政部長等に命令を下す状況に陥っていた〔。10月1日、ナチス・ドイツから派遣されているファルケンハウゼン将軍によって立案された上海・漢口租界の日本軍への奇襲攻撃作戦が蒋介石に伝達された。10月5日、蒋介石と川越大使との会談が行われ、蒋介石は日中友好を力説した。 1936年10月、国民政府行政院長(首相)蒋介石は、紅軍(中国共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じたが、共産党と接触していた張学良と楊虎城は共産党への攻撃を控えていた〔。このため、蒋介石は攻撃を督促するために12月4日には西安を訪れていた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西安事件」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Xi'an Incident 」があります。 スポンサード リンク
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