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西尾 宗次(にしお むねつぐ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。福井藩主・松平忠直の家臣。通称は仁左衛門。父は宮地久右衛門。初め宮地久作、後に西尾久作。 ==概要== 元は武田氏の家臣。天正9年(1581年)の高天神城落城の際、横田尹松に従って城を脱出した〔丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書、2015年) 104頁〕。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で越前松平家鉄砲組に属し、安井神社の境内にて休息中の真田信繁(幸村)を討ち取る。その功から、徳川家康及び徳川秀忠父子からは褒美を、松平忠直からは刀などを賜ったとされる。当時、豊前小倉藩主の細川忠興の書状には、「首は越前殿鉄砲頭取申し候、手負て、草臥れして居られ候を取り、手柄にも成らず候。 」とある。 「幸村」初出の軍記物語『難波戦記』には、西尾は当初、この首が誰かわからなかったが、同家中で信繁と旧知の仲であった原貞胤がこれを信繁の首と認知したため、西尾は家康にこれを届けた。その際に誇張報告をした西尾を家康は叱咤したが、直前に同じ越前松平隊所属の野本右近が御宿政友の首を持参し、それに褒美を与えていたため、仕方なく同様の褒美を与えた、という話が収録されている。また、越前松平家に伝わる「松平文庫」には、西尾は相手が信繁と知らずに槍で戦って信繁を討ち取ったと記述されている〔「真田幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見」読売新聞、2013年2月25日、2016年2月22日閲覧〕。 西尾は信繁を供養するため、初代福井藩主結城秀康と西尾家の菩提寺である孝顕寺(福井県福井市足羽)の境内に首塚を造り、首塚には信繁の鎧袖が埋められ、首はさらに別の場所に埋葬され西尾家一子相伝の秘密となったとされる〔。首塚には背面に信繁の法名「大機院」を刻んだ笏谷石製の高さ約90センチの地蔵像(通称、真田地蔵)が安置されていたが、これは1975年に西尾家の子孫から福井市立郷土歴史博物館に寄贈された〔。ただ、孝顕寺には首塚の痕跡が残らなかったため境内のどこにあったのかは不明となっている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西尾宗次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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