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西尾 慈高(にしお しげたか、1934年2月27日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(投手)。 名の読みをよしたかと誤記した文献が多いが、正しくはしげたかである。 == 来歴・人物 == 立命館神山高校から立命館大学経済学部に進学。関西六大学リーグでエースとして活躍し、1954年春季リーグ優勝。直後の全日本大学野球選手権大会では、決勝で秋山登、土井淳らのいた明大に敗れ準優勝にとどまる。同年9月に大学を中退して阪神に入団した。大学同期に吉田義男がいるが、吉田も1年で中退している。 1954年、1955年には先発として何度か登板機会を与えられたものの勝利を挙げることができなかった。1956年に中日戦でプロ初勝利となる完封勝利を記録し、この年は防御率2.80で3勝とまずまずの成績を残した。内角を入念にシュートできめ、ドロップで勝負を決める投球術が持ち味。 1957年には、開幕投手になるものの、1勝2敗で防御率4.62と不調であった。翌1958年に、11勝10敗防御率2.71と主力投手並みの成績を残し、エースの小山正明に次ぐ先発投手として位置づけられた。しかし、1959年からは、のちにエースとなる村山実が入団したことから登板機会が減りだし、1959年には8勝9敗、1960年には4勝4敗に終わった。 1960年のオフ、星山晋徳とともに、伊奈努と横地由松との交換トレードで中日に移籍した。 1961年、中日の若手選手だった中利夫に懇願され、自身のグラブを譲り渡した。こののち、中は外野守備の名手として知られるようになり、引退までこのグラブを使い続けた。一方、西尾は1961年こそ6勝を挙げたものの、その後は目立った活躍はできず、1965年に引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西尾慈高」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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