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西尾藩(にしおはん)は、江戸時代に三河国に存在した藩。西尾城(現愛知県西尾市)を居城とした。藩主は、本多氏(膳所)、松平氏 (大給府内)、太田氏、井伊氏(与板)、増山氏、土井氏(刈谷)、三浦氏、松平氏(大給西尾)が就封した。 == 藩史 == 西尾城は、徳川家康が今川氏から自立した永禄4年(1561年)、家臣の酒井正親を城主に任命して治めさせた地である。なお、正親は徳川家臣団の中で家康から初めて城主に任命された人物である。 関ヶ原の戦い後、豊臣氏恩顧の大名は家康によって西国に移封され、慶長6年(1601年)2月に下総小篠から本多康俊が2万石で入った。これが西尾藩の立藩である。元和3年(1617年)10月、康俊は近江膳所藩に移封された。 代わって下野板橋藩から松平成重が2万石で入った。しかし元和7年(1621年)7月に丹波亀山藩に移封される。 そのため、父・康俊の後を継いで近江膳所藩の第2代藩主となっていた本多俊次が3万5000石で西尾藩に入ったが、寛永13年(1636年)6月23日に伊勢亀山藩に移封された。これにより西尾は廃藩、幕府領となった。 寛永15年(1638年)4月24日、下野山川藩から太田資宗が3万5000石で入る。資宗は西尾城と城下町の改築に尽力したが、完成直前の寛永21年(1644年)2月28日に遠江浜松藩に移封された。このため、西尾藩は再び廃藩となった。 正保2年(1646年)6月23日、上野安中藩から井伊直好が3万5000石で入る。直好は井伊直政の孫に当たり、西尾城の改築を完成させた後の万治2年(1659年)1月28日に遠江掛川藩に移封された。 直後の2月3日、相模国内から増山正利が2万石で入る。正利の姉・お蘭(お楽の方)は第4代将軍徳川家綱の生母で、正利は家綱の教育係を行なった人物であり、その縁から家綱によって大名に取り立てられた。第2代藩主増山正弥は寛文3年(1663年)7月に常陸下館藩に移封された。 代わって、下野国内から土井利長が2万3000石で入る。利長は江戸幕府の老中・大老として前期幕政を主導した土井利勝の三男である。第2代藩主土井利意は税制改革・農政に尽力した善政を行なった名君といわれる。第4代藩主土井利信時代の延享4年(1747年)2月11日に三河刈谷藩に移封された。入れ替わる形で三浦義理が2万3000石で入る。しかし第2代藩主三浦明次時代の明和元年(1764年)6月21日に美作勝山藩に移封される。 このように、江戸時代前期の西尾藩は転封が多く、入封しても十数年で再度移封されるという状況であった。出羽山形藩より松平乗祐が6万石で入封して以降、この状況はようやく解消された。乗祐の家は十八松平家の一つ大給松平家の宗家に当たり、6万石の表高であったが、西尾のみでは石高が足らず、越前国内にも飛び地として所領が与えられた。また松平一門の名門として、播磨国尼崎藩主桜井松平家と共に諸大夫の筆頭として殿中での拝謁では従五位下の大名の中で最初に拝謁することになっており、以降の歴代藩主は老中として幕政に関与するものが多かった。ただし、幕閣入りしたため、松平氏の財政は困窮することが多かった。 第3代藩主松平乗寛は松平定信の寛政の改革に参与し、幕政改革に従って藩政改革も行ない、幕府機構の取り入れを行なっている。第4代藩主松平乗全は井伊直弼の安政の大獄で井伊派として一橋派の処分に務めた。 第5代藩主松平乗秩時代の慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、佐幕派と尊王派による大論争が行なわれて藩が分裂の危機に陥ったが、下級武士層による尊王派が大局を占め、尾張藩に従って新政府に与し、存続に苦慮している。明治2年(1869年)の版籍奉還で乗鉄は西尾藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免官され、西尾藩も廃藩となった。 西尾藩は山本周五郎作『町奉行日記』(市川崑により『どら平太』として映画化された)の舞台となった藩のモデルと言われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西尾藩」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nishio Domain 」があります。 スポンサード リンク
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