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西岡の戦い : ミニ英和和英辞書
西岡の戦い[にしおかのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

西岡の戦い : ウィキペディア日本語版
西岡の戦い[にしおかのたたかい]

西岡の戦い(にしおかのたたかい)は、応仁の乱における戦闘の1つで、文明元年(1469年4月22日に現在の京都府乙訓郡西岡で東軍と西軍が衝突した。
山城西部の乙訓郡は丹波摂津に近い地域であり、国人は2ヶ国守護の細川氏と深い繋がりを持っていた。この縁で応仁の乱では細川勝元が率いる東軍に味方して、野田泰忠ら国人衆は西岡を始めとする乙訓郡で上洛する西軍の軍勢と戦っていた。しかし、戦闘が京都から周辺地域に移ると西岡が狙われる状況になり、応仁2年から東西両軍が入り乱れて合戦を繰り返すようになった。
文明元年4月19日、谷の堂(京都市)を根拠とする西岡国人衆は鶏冠井城向日市)に籠城する西軍を襲撃したが、僅か3日後の22日に畠山義就が出撃、谷の堂は落とされ西岡国人衆は丹波へ逃亡した。西岡を含む乙訓郡は西軍が制圧、義就は勝竜寺城で乙訓郡及び山城の支配に取り掛かった。6月16日大内政弘も摂津へ向かい東軍の拠点を殆ど奪い取り、山城周辺は西軍に押さえられた。
西岡を失った野田泰忠らは奪還のため山名是豊山崎に迎え入れ、勝竜寺城の義就と交戦を続けたが、文明2年(1470年)12月に是豊が領国備後へ下向してからは大きな合戦がないまま小競り合いとなり、終戦まで乙訓郡は義就の占領下にあった。また、大内軍も文明2年7月に南山城へ遠征、山城と大和の境界付近にある木津を巡り両軍が攻防戦を繰り広げていった。
== 参考文献 ==

* 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典 六 京都・兵庫・岡山』P38 - P40、新人物往来社、1989年。
* 石田晴男『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』P235 - P238、P246 - P249、吉川弘文館、2008年。
* 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』P13 - P14、吉川弘文館、2009年。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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