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西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安政5年4月19日)-1924年(大正15年)3月9日))は、明治期の起業家・近江商人。西川傳右衛門家の10代目、諱は昌一。カニ缶を初めて商品化、八幡銀行(後の滋賀銀行の一部)・帝国水産等を創業した。 == 生涯 == === 生い立ち === 1858年5月31日((旧暦)安政5年4月19日)、近江国野洲郡江頭村(現近江八幡市江頭町)の井狩只七の次男定次郎として誕生した〔「西川貞二郎 2.誕生」(近松文三郎著 近松文三郎 1935年)〕〔「滋賀県百科事典」(大和書房 1984年)〕。母は蒲生郡中野村(現東近江市)小泉弥右衛門の娘〔。1864年(元治元年)、定次郎は第9代西川傳右衛門昌武(1862年(文久9年)死去)の後継となるため西川家に入る。定次郎の祖母は第5代傳右衛門昌康の娘に当たり、定次郎の叔母は西川家分家善六家に嫁ぎ、西川家と井狩家は姻戚関係にあった〔「西川貞二郎 3.井狩家と西川家の姻戚関係、4.養子縁組」(近松文三郎著、近松文三郎、1935年)〕。 定次郎の養育は養祖母いくと養母ゑいが取り仕切り、寺子屋での手習いの他に商家跡取りとして必要な漢学・能楽・謡曲を別に習った。また1870年(明治3年)には家業見習いとして丁稚修行を松前支配人の下で行わせた〔「西川貞二郎 7.幼児の教養」(近松文三郎著 近松文三郎 1935年)〕。1874年(明治7年)、松前より戻り先代傳右衛門の娘つやと結婚するが、翌々年早産により子が夭折し、妻つやも産後の病から同年9月に死去した。翌1877年(明治10年)4月養母ゑいの末妹すみと再婚する〔「西川貞二郎 8.結婚」(近松文三郎著 近松文三郎 1935年)〕。この頃、分家西川善六家家主吉輔より儒学を習う。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西川貞二郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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