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西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - 2011年11月25日)は、和歌山県出身のプロ野球選手・監督、野球解説者。 == 経歴 == === 現役時代 === 父親は日本勧業銀行(後の第一勧業銀行、現みずほ銀行)に勤務する銀行員であり〔阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P24〕、裕福な家庭に育つ。1933年に野球の名門校だった旧制県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)に進学する。当時は野球部に入れば「勉学をあきらめる覚悟が必要」だったため入部をあきらめ、3年生の時にはラグビー部に所属していた〔山本暢俊『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』彩流社、2007年、P99。野球名門校だった和歌山中学には野球特待生もいた。そうではなかった西本は、野球部の勧誘を受けたものの両親にもいえなかったという。〕。しかし、4年生の秋、5年生7人が引退して5人だけになった野球部に入部し、二塁手と一塁手を務め、時にはリリーフ投手としてマウンドにも立った〔『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P99。引退した上級生の一人に宇野光雄がいる。後述するように、宇野は大毎オリオンズで西本の後任監督を務めた。〕。 1937年夏の甲子園の紀和大会予選決勝では、海草中学校(現・和歌山県立向陽高等学校)と対戦。当時3年生の嶋清一の前に敗れて甲子園出場はならなかった〔『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P40 - 41。西本は嶋について「球が見えないんや。とにかくかすらない。それぐらい速かった」と述べている。記録ではこの試合で西本は1安打を放っているが、自身は記憶になく「どうせ当たりそこないや。まともなヒットなら嬉しくて印象に残っているはずだから」と話している。〕。 1938年に旧制立教大学に進学。当時の立教大学野球部には監督がおらず、のちには実質的な監督役を務めている。文部省の命令でリーグ戦が中止となった1943年5月には、自ら申し入れて明治大学との対外試合をおこなった〔『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P205。明治大学のマウンドには嶋清一が立ったが西本によると「球は海草時代ほどではなかった」という。〕。学徒出陣により同年秋に応召。陸軍中尉にまで昇進し、温情に満ちた隊長として部下に尊敬されていた。中国で終戦を迎え、復員後は八幡製鉄、全京都、別府星野組と社会人チームを渡り歩く。星野組時代の1949年には監督・一塁手・3番打者として都市対抗野球に出場し、チームを優勝に輝いた。 1950年、毎日オリオンズに入団。プロ入り時には既に30歳であり、選手としてのピークは過ぎていたが、1番(または2番)・一塁手の定位置を確保し、毎日のパ・リーグ優勝と日本一(日本シリーズ優勝)に貢献した。1952年には主将を、1954年には兼任コーチを務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西本幸雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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