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西村 琢磨(にしむら たくま、1889年(明治22年)9月12日 - 1951年(昭和26年)6月11日)は、日本の陸軍軍人。第二次世界大戦当時の陸軍中将である。 ==経歴== 福岡県出身。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(22期)卒業。同期に、松井太久郎、牟田口廉也がいる。陸軍大学校(32期)卒業で、砲兵科を専門とする。軍務局勤務が長く、五・一五事件の時には、第一師団特設軍法会議判士長を務めた。 以後、野戦重砲兵第九連隊長(1936年(昭和11年)8月より)、野戦重砲兵第一旅団長(1938年(昭和13年)3月より)、東部防衛参謀長(1939年(昭和14年)3月より)、印度支那派遣軍司令官(1940年(昭和15年)9月より)を経、1940年12月2日陸軍中将となる。その後、独立混成第二十一旅団長(1941年(昭和16年)6月24日より)、近衛師団長(1941年6月28日)を務め、第25軍の指揮下でシンガポール攻略戦に参加後、シンガポール周辺の残敵処理にあたった。このことが、シンガポール華僑粛清事件に絡み、戦後に戦犯指名を受ける原因となる。 1942年(昭和17年)7月15日に予備役に編入されるが、1943年(昭和18年)4月15日に陸軍司政長官に任命され、同年6月20日よりビルマのシャン州政庁長官、1944年(昭和19年)2月には蘭印、スマトラ州知事を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西村琢磨」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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