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西村 計雄(にしむら けいゆう、1909年6月29日 - 2000年12月4日)は日本の画家。共和町名誉町民、紺綬褒章受章。 == 略歴 == 1909年6月29日、北海道小澤村(現・共和町小沢)に生まれる。父の久太郎は和菓子職人で、小沢駅前で弁当や「トンネル餅」を作って売っていた。幼少の頃より画家を志し、1929年東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学、藤島武二教室にて学ぶ。同期には、岡本太郎や東山魁夷らがいる。 1938年、当時東京女子美術大学の学生だった文子(ふみこ)と結婚。三人の子宝に恵まれ、家族をテーマに多数の絵を描いた。戦後1949年から渡仏するまで早稲田中学校・高等学校の教師を勤める。その時の教え子に永六輔がいる。 1951年、42歳で単身渡仏。坂口謹一郎の計らいでピカソの画商カーンワイラーと出会い、それを契機に1953年よりパリを中心にヨーロッパ各地で個展を開催。作品は、フランス政府やパリ市が買い上げた。 1955年、長女・育代がパリへ行き、1961年には家族全員がパリに揃い生活を始める。1973年、作品「ヒロシマ」(300号)を広島市の平和記念館(現・広島平和記念資料館)に寄贈。1978年から沖縄平和祈念堂の連作「戦争と平和」に取りかかり、1979年2月9日に第1作「沖縄に熱き想いを」を献納。以後、8年の歳月を費やし300号の大作20点を作成した。その作品は平和祈念堂内全壁面に展示されている。1989年、当時の共和町長が故郷へのメッセージとしての絵画作品を正式依頼し、「ふるさと」(20号)を寄贈。 1990年、西村計雄のコレクターが自宅の酒蔵を改造し、兵庫県川辺郡猪名川町に「西村計雄美術館 翠松苑」オープン。1991年、日本で長女の家族とともに暮らす住居及びアトリエを建設し、翌年2月から暮らし始める。 1992年、岩内町の荒井記念美術館に2号館として「西村計雄美術館」オープン。 1993年、母校・倶知安高校へ「TOKIO」(≪豹変するトウキョウ≫)を寄贈。このころから、お菓子の箱や木などをカンヴァスにして描いた「箱絵」を制作するようになる。1995年6月、共和町に自作の絵画103点を寄贈〔“故郷・共和に絵画寄贈 画家・西村計雄さん パリ時代含む103点 町、記念「美術館」建設へ”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1995年6月11日)〕。 これを機に1999年11月1日、北海道共和町に「西村計雄記念美術館」が設置〔“共和・西村計雄記念美術館 初日からにぎわう 開館祝って台紙も販売”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1999年11月3日)〕。のちに遺族から油彩画5,208点ほか、スケッチや愛用品などの遺品が共和町(美術館)に寄贈されている。 2000年12月4日、老衰のため東京のアトリエにて逝去。同月、共和町名誉町民として町葬が執行された。 2002年4月5日、東京のアトリエオープン。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西村計雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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