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西条 凡児(さいじょう ぼんじ、1914年10月17日 - 1993年5月31日)は、日本の漫才師・漫談師。現在の大阪府生まれ。本名は河内弘明。浪華商卒業、関西大学専門部中退。 「西条」という名前は師・花月亭九里丸のペンネーム「西条ちかし」および西条八十から、「凡児」は只野凡児に由来。 ==来歴== 芸人を志し、来阪した古川緑波や大辻司郎に弟子入り志願をしたが断られ、知人の紹介で当時「漫談屋」と称していた花月亭九里丸の内弟子となる。しかしながら、結婚して妻が妊娠中にもかかわらず、師匠の隣家に無理やり住まわされる等の内弟子修行の辛さに堪えかね、1年で師弟関係を解消する。後年、九里丸が折れる形で同業者としての関係は修復するものの、内弟子を飛び出して以降、凡児と九里丸の間に師弟関係はなかった〔香川登枝緒『大阪の笑芸人』〕。 当初から、一人でしゃべる芸が希望であったがなかなか仕事がなく、1935年に千日前にて九条芸児とのコンビで「五銭漫才」でデビュー。その後戦争中に招集され、従軍している間に相方の芸児が病死したため、復員後の一時期一枝という女性と組んだこともあった。 戦後九里丸の世話もあって、ようやく漫談で高座に上がることとなった。当時珍しかった毒舌が人気を博し、次第に人気芸人となる。 日本の民間放送がスタートすると共に新日本放送(現:毎日放送)の専属となりパーソナリティとしても活躍。中でも『凡児のお脈拝見』(毎日放送ラジオ)、『素人名人会』(MBSテレビ)、『おやじバンザイ』(朝日放送テレビ)の司会で毒舌ながらも庶民的な語り口が受け、視聴者から愛される存在となった。1970年頃に建設会社とトラブル(「騒音問題をテレビで喋るぞ」と脅す)になり、それが影響でメディアから離れる。1972年4月に『凡児の娘をよろしく』(関西テレビ)の司会として復帰。1979年に同番組が終了すると、メディアの第一線から退いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西条凡児」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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