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西武村山線(せいぶむらやません)とは、 # 西武鉄道新宿線のうち高田馬場-東村山間と、西武園線の旧線である東村山-村山貯水池間を合わせた区間の旧称。1952年3月25日の路線名称改正により、新宿線と西武園線に分離された。西武新宿線および西武西武園線を参照。 # 上記村山線の母体となった、箱根ヶ崎-東村山-田無-下井草-吉祥寺(のち荻窪)間の計画線。ほとんどの部分は1の村山線として開業に至ったが、両端部は未成のまま免許取り消しとなった。この項で詳説。 == 概要 == === 村山軽便鉄道時代 === 村山線の免許そのものを取得したのは西武ではなく、東村山に本社を持つ鉄道会社・村山軽便鉄道である。当時、東村山を通る川越鉄道(現在の西武国分寺線と西武新宿線の一部)以西には一切鉄道路線がなく、狭山丘陵の南に近接する青梅街道沿いの村々は、全くの陸の孤島状態であった。 そこでこれらの村の有力者が発起人となって、箱根ヶ崎から石田・殿ヶ谷(以上現在の瑞穂町)・岸・三ツ木・中藤(以上現在の武蔵村山市)・芋窪・蔵敷・奈良橋・高木・狭山・清水(以上現在の東大和市)・東村山(現在の東村山市)・久留米(現在の東久留米市)・田無(現在の西東京市)の各町村を経由し、中央本線の吉祥寺につなぐ都心連絡鉄道を計画したのである。当初はさらに現在の西武新宿線と同様の経路により戸塚(現在の新宿区)までつなぐ計画で申請したが、1915年2月8日に短縮し変更している。なお、動力は蒸気であった。 申請に際しては交通至便化や地域振興だけでなく、この村山地区が自然豊かで観光に最適であること、また当時東京市が建造中だった村山貯水池(多摩湖)が将来的に名所となり交通が必要になることを理由として挙げていた。また、田無から先は西武軌道(後の都電杉並線)と併願状態となったが、この時点で既に20年間計画が動いていない状態だったため、問題なしとして申請を行った。 この結果、1915年3月25日に箱根ヶ崎-東村山-田無-吉祥寺間の免許が下付されることになる〔「軽便鉄道免許状下付」『官報』1915年3月29日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。しかし下付を受けたはいいものの、会社の首が回らない状態となり、翌1916年3月1日に早くも工事施行認可申請を延期。いきなり計画が暗礁に乗り上げることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西武村山線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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