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西沙諸島の戦い(せいさしょとうのたたかい、)は、1974年1月に、西沙諸島(パラセル諸島)の領有権を巡って中華人民共和国とベトナム共和国(以下、南ベトナム)が交戦した武力衝突である。海戦により中国艦隊が南ベトナム軍艦1隻を撃沈し、南ベトナムが支配していた島嶼に部隊を上陸させて占領した。別名として永楽紛争、あるいは海戦部分のみを取り上げて西沙海戦とも呼ぶ。中国側の呼称は西沙群島自衛反撃作戦〔張(1996年)、394頁。〕。 == 背景 == 南シナ海上の西沙諸島は、第一次インドシナ戦争後、中華人民共和国と南ベトナムが領有権を主張して領土問題を生じていた。中国が西沙諸島の東部を、ベトナム共和国(以下、南ベトナム)が珊瑚島等の西部(永楽群島)を実効支配していた。1971年には中国軍が西沙諸島に艦隊を派遣し、多数の施設の建築を行って軍事的緊張が高まったことがあった〔木俣(1993年)、252頁。〕。 1974年当時の南ベトナムはベトナム戦争末期の追いつめられた状況にあった。前年のパリ協定に基づきアメリカ軍は南ベトナムから全面撤退し、わずかな軍事顧問が残る程度になっていた。南ベトナム海軍は、アメリカから供与された旧式艦を主体とし、護衛駆逐艦など比較的に大型の艦艇は保有していたが、実戦経験は乏しく練度も高いとは言い難かった。 対する中国側も文化大革命の混乱期ではあったものの、海軍の近代化が進みつつあった。中国海軍の主力艦艇はソビエト連邦から供与された駆逐艦や潜水艦であったが、1960年代後半から上海型哨戒艇(en)などの小型艦艇の国産化を実現していた。うち、西沙諸島を担当する部隊は、湛江市に司令部を置く南海艦隊であった。また、西沙諸島はベトナム本土よりも中国本土に近く、中国側航空部隊の作戦圏内に収まっていた。 1974年1月11日、中国政府は、西沙諸島が自国領土であることを改めて主張する声明を発表した〔張(1996年)、395頁。〕。この発表の意図は、前年9月に南ベトナム政府が、同じく中国と係争中の南沙諸島についてフートイ省へ編入する旨を発表したことに応じて、対抗措置を講じることにあった。従来からの中国政府の主張を確認するものではあったが、島嶼そのものだけでなく周辺海域の支配権にまで言及した点で新しく、大陸棚資源を確保しようという戦略的な狙いが明らかにされていた〔平松(1993年)、32-35頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西沙諸島の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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