|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 西 : [にし] 【名詞】 1. west ・ 潟 : [かた] 【名詞】 1. lagoon ・ 冬 : [ふゆ] 1. (n-adv,n-t) winter ・ 蔵 : [そう, くら, ぞう] 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
西潟 訥(にしかた とつ〔村島。金子。〕 / おそし〔「大矢博士自伝 」(『国語と国文学』第5巻第7号、至文堂、1928年7月)90頁。真水。〕 / いたる〔佐々木隆 「「大木喬任関係文書」所収司法・検察関係者書翰翻刻」(『参考書誌研究』第66号、国立国会図書館、2007年3月 、)4頁。〕、1838年(天保9年) - 1915年(大正4年)4月22日)は明治時代の日本の裁判官、文部官僚。旧名を冬蔵といい、明治初年には八雲(やぐも)とも称した〔真水。〕。 == 来歴 == 天保9年(1838年)、越後国中蒲原郡臼井村の医家に生まれる。幼名を小林敏之助といい、父・小林左内は和泉村の名主を勤めた。父に従って漢学を修めたのち、早くから家を出て四方を遊歴。明治元年(1868年)、戊辰戦争が起こると有志を集めて北辰隊に参加し、一番小隊司令官となった〔。北辰隊は同年7月に遠藤七郎が組織した農兵隊で、前原一誠・奥平謙輔率いる長州干城隊のもと新政府軍に加わった〔田中惣五郎著 『明治維新運動人物考』 東洋書館、1941年6月、31-41頁 。〕。またこの頃、姓を西潟に改め、八雲(やぐも)と名乗っている。11月、佐渡民政方となった奥平のもとで聴訟改革御用掛を命じられ、真野山で見つかった順徳上皇玉冠を朝納するため〔前掲 「大矢博士自伝」 92-93頁。〕翌明治2年(1869年)2月に京都にのぼったのち、4月に越後府雇(聴訟方勤・佐渡県兼勤)となった。7月に佐渡県が独立すると北辰隊員は相次いで帰国したが、西潟は除隊となって新都東京に向かい、壬生基修らの引き立てにより同年11月に東京府権大属に就任〔。明治4年(1871年)9月まで東京府に勤務した〔尾形裕康著 『学制成立史の研究』 校倉書房、1973年3月、149頁。〕。 明治4年10月、文部省八等出仕となり、12月には学制取調掛を命じられた〔。文部入省に先立って参議大隈重信に提出したとされる建白書が、学制成文や文部卿大木喬任の手元に遺された学制実施順序を記した文書と共通する内容であることから、西潟は学制の有力起草者の一人とも目されている〔倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、384-391頁。伊藤彌彦著 『未完成の維新革命 : 学校・社会・宗教』 萌書房、2011年3月、ISBN 9784860650575、42-45頁。〕。翌年2月に文部省七等出仕(学務課・受付課受持)、6月に文部省六等出仕に進み、学制制定後の10月、文部少丞に就任〔『太政官日誌』明治5年第10号、2丁表 。明治5年2月11日文部省達(内閣記録局編輯 『法規分類大全第一編 官職門十四』 1891年2月、62頁 )。『太政官日誌』明治5年第48号、4丁表 。同誌明治5年第85号、1頁 。〕。明治6年(1873年)9月から第六第七大学区に派遣されて学制実施の状況調査と現地指導に当たった〔前掲倉沢、580-581頁。倉沢剛著 『小学校の歴史I : 学制期小学校政策の発足過程』 ジャパン・ライブラリ・ビューロー、1963年12月、387-393頁。〕。同年11月には中督学に就任。第六第七大学区督学事務取扱を命じられ、翌明治7年(1874年)4月に各大学区督学局が一局に合併された後も督学事務取扱を務めたが、9月に免官となった〔『太政官日誌』明治6年第151号、10頁 。中島三夫著 『長三洲』 中島三夫、1979年2月、228頁写真。前掲倉沢、584頁。『太政官日誌』明治7年第133号、2頁 。〕。 その後裁判官に転じ、明治8年(1875年)5月、六等判事に就任(明治10年6月、判事に更任)〔『太政官日誌』明治8年第59号、4頁 。『東京日日新聞』第1673号、1877年7月2日、1面。〕。東京上等裁判所に勤務した。明治17年(1884年)12月に一度非職となったものの、明治20年(1887年)5月には宮城控訴院評定官として復職〔『官報』第443号、1884年12月17日、4頁 。同誌第1173号、1887年5月30日、285頁 。同誌第1174号、1887年5月31日、299頁 。〕。明治23年(1890年)10月からは宮城控訴院部長を務め、明治31年(1898年)11月に大審院判事に転じた上で休職を命じられた〔『官報』第2204号、1890年11月1日、10頁 。同誌第4609号、1898年11月9日、82-83頁 。〕。 大正4年(1915年)4月22日、享年78で死去〔。漢籍・職務関係の写本類などの旧蔵資料を新潟県立図書館が所蔵する〔“新潟県立図書館郷土コレクション 郷土文庫データベース ” 新潟県立図書館、2015年11月1日閲覧。〕。国語学者の大矢透は外甥にあたる〔前掲 「大矢博士自伝」 90頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西潟訥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|