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西沢 道夫(西澤 道夫、にしざわ みちお、1921年9月1日 - 1977年12月18日)は、東京府生まれのプロ野球選手・監督・野球解説者。初代「ミスタードラゴンズ(2代目は高木守道、3代目は立浪和義である〔2005年4月発売の中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡(ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-61324-6)には、木俣達彦について「ミスタードラゴンズの資格十分」と書かれている。また、北京オリンピック野球日本代表監督を務める以前の星野仙一を「ミスタードラゴンズ」と紹介している文献も存在する(オークラ出版「中日ドラゴンズ伝説」〈2008年4月30日出版、ISBN 4775511882 / ISBN 978-4775511886〉p.21)。〕」)である。また、「文ちゃん」(ブンちゃん)の愛称で親しまれた(#プロ入り・投手時代を参照)。 == 来歴 == === プロ入り・投手時代 === 12月、15歳で名古屋軍〔後に産業軍(1944年)→中部日本軍(1946年)→中部日本ドラゴンズ(1947年)→中日ドラゴンズ(1948年 - 1950年)→名古屋ドラゴンズ(1951年 - 1953年)→中日ドラゴンズ(1954年 - )と変遷。〕の入団テストを受け投手として入団。テスト受験当時、品川区立第二日野高等小学校高等科2年。最終学歴は旧制小学校卒となっているが、プロに進んでから、旧制鹿児島総合中、日本大学に在籍した。 年齢不足のため1年目となるは当初養成選手(練習生)として過ごし、9月5日に公式戦初登板。満16歳と4日での公式戦出場は、現在も日本プロ野球史上最年少記録である。 練習生として入団した当時、小学生ながら高い身長であるのを見たコーチが、当時人気の巨漢大相撲力士出羽ヶ嶽文治郎に当てはめ「大きいなぁー、まるで文ちゃんみたいだな」とほめた事により、上記愛称が定着した。また、日本プロ野球の正式登録選手として初の「背番号0」は、広島東洋カープ所属の長嶋清幸であったが、西沢はその46年前に0番を付けていた〔雑誌『ベースボールマガジン』1998年夏季号(1998年7月1日、ベースボール・マガジン社発行)の編集後記より。また、西沢以後にも同じく練習生として、1946年 - 1947年に東京ジャイアンツ→読売ジャイアンツの長岡久夫、ブルペン捕手として、1948年に東急フライヤーズの太田義次がそれぞれ付けていたことが記載されており、西沢以外は同誌の球団別背番号年表の0の欄に名前が掲載された。〕(正式登録後は5番に変更)。 戦前日本のリーグ戦では珍しい、六尺(身長182センチ)の長身を活かした速球投手として活躍。1939年に6勝を挙げると、翌1940年は20勝を挙げて一躍主力投手になった。しかし以降は好投するもなかなか勝ち星が付かず、2桁勝利は同年だけであった。 1942年5月24日対大洋戦(後楽園球場)に先発。大洋の鉄腕野口二郎と投げあい、世界最長となる延長28回を311球で完投した。同年7月18日にはノーヒットノーランも達成する。1943年のシーズンを最後に応召。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西沢道夫」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Michio Nishizawa 」があります。 スポンサード リンク
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