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西田 惟成(生年不詳 - 安政6年(1859年)8月8日)は、江戸時代の肥前島原藩豊州領2万7,000石余の代官。島原藩の儒者、教育者、漢詩人。通称は常之丞、弥学、一右衛門。号は蘭雪。 ==経歴== 代々郡方の役人を務めた西田家〔文化2年の天草異宗事件の際にその対処にあたった天草富岡役所改役西田市右衛門信行は、西田惟成の父親である(『西田家記 ~高田・富岡に祗役した島原藩士四代の記録ほか~』2013年、p.38)。〕の長男として生まれる。文化2年(1805年)から郡方勘定物書見習、文化6年(1809年)からは郡方勘定物書に任ぜられ、続いて文政4年(1821年)に代官となり、文政5年(1822年)には島原藩豊州領2万7,000石余の代官として高田御役所(高田御陣屋)に祗役していたと記録に残る〔後藤重巳ほか校訂『執睨録』(別府大学付属博物館、1985年)pp.110-111。〕。その後島原に戻り、文政9年(1826年)から稽古館の訓導、嘉永6年(1853年)からは助教を務め〔肥前松平文庫62-1-9「追加士分明細帳 一」(島原図書館蔵)。〕、この間、京極高景、松平忠侯、松平忠誠、松平忠精、松平忠淳に侍講した〔『「深溝世紀」巻十九 平公/巻二十 匡公』(島原市教育委員会、2004年)p.29。〕〔『島原の歴史 藩政編』(島原市役所、1972年)pp.465, 468。〕〔林銑吉編『島原半島史』下巻(長崎県南高来郡市教育会、1954年)p.753。〕〔『西田家記 ~高田・富岡に祗役した島原藩士四代の記録ほか~』(2013年)pp.14-15。〕。藩を代表する漢詩人でもあり、原采蘋が島原を訪ねた折には、稽古館の代表としてその宿所に赴いて詩宴を設けている〔『「深溝世紀」巻十九 平公/巻二十 匡公』(島原市教育委員会、2004年)p.19。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西田惟成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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