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西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年(明治27年)1月20日 - 1982年(昭和57年)6月5日)は日本の詩人、英文学者(文学博士)。戦前のモダニズム・ダダイズム・シュルレアリスム運動の中心人物。水墨画をよくし、東山と号した。小千谷市名誉市民。生前、ノーベル文学賞の候補に挙がっていたものの、翻訳の壁が大きな障害となり〔西脇順三郎ノーベル賞候補4度 〕、受賞を逸している〔Nomination Database 〕。 ==経歴== ===学生時代=== 新潟県北魚沼郡小千谷町(現在の小千谷市)に小千谷銀行頭主・西脇寛蔵の三男として生まれた。西脇家は元禄時代より代々縮問屋を営んでいた。8月に日清戦争が始まった。 1900年(明治33年)に小千谷尋常高等小学校に入学し、姉からナショナル・リーダーズを習う。この間日露戦争が始まる。1906年(明治39年)に新潟県立小千谷中学校に入学し、文学よりももっぱら絵画を好み、自然の「入神」の境地を味わい、卒業旅行は佐渡へ出た。小千谷中学卒業と共に図画教師にすすめられて画家を志望する。白滝幾之助・藤島武二らに相談の末、黒田清輝主宰の「白馬会」に入会するが、画学生の気風になじめず、父の急死により画家の道を断つ。 1912年(大正元年)に兄・修太郎の在籍する慶應義塾大学理財科予科に入学。英書を読み漁り、フランス象徴派詩人の知識を得る。特にアーサー・シモンズの『散文と詩の研究』によってウォルター・ペイターに開眼する。第一次世界大戦が始まり、1917年(大正6年)に卒業論文を全文ラテン語で執筆し、小泉信三教授に提出して慶應義塾大学理財科(現在の経済学部)を卒業。4月に『ジャパンタイムズ』社に入社するが、経営陣交替にともない退社。翌年3月、日本銀行への入行が内定していたが、健康を損ない、郷里の小千谷に帰り自宅で静養を続ける。 1919年(大正8年)6月、ジャパンタイムズ時代の高橋一知の招聘で、外務省条約局に嘱託として入局。翌年の4月に田中萃一郎の推薦で慶應義塾大学予科教授となり、野口米次郎、戸川秋骨、馬場孤蝶らを知る。翌年に『英語文学』に「THE POMEGRANATE」「SONNET OF SUMMER」のソネットを発表。1922年(大正11年)にギュスターヴ・フローベールを愛読し、『三つの物語』一篇に基づく長い英詩「ST.JULIAN THE PARRICIDE」を『三田文学』に発表。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西脇順三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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