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西部 邁(にしべ すすむ、1939年(昭和14年)3月15日〔『そろそろ子供と「本当の話」をしよう』ベストブック、2012年、46および103頁〕 - )は、日本の評論家、思想家、雑誌『表現者』顧問。元鈴鹿大学客員教授、元秀明大学教授・学頭。元東京大学教養学部教授。 == 経歴 == 北海道山越郡の漁師町・長万部町に生まれる〔『妻と僕』(飛鳥新社、2008年)の巻末に西部の詳細な経歴が掲載されている。また西部は『寓喩としての人生』(徳間書店、1998年)という自伝を公表している。〕。父は夕張郡長沼町〔『生まじめな戯れ 価値相対主義との闘い』 筑摩書房、1984年7月〕の浄土真宗派の末寺の末男で農協職員。札幌郡厚別の信濃小学校、札幌市立柏中学校、北海道札幌南高等学校に進学。高校卒業まではマルクスもレーニンもスターリンも毛沢東も知らぬノンポリであった。18歳まで重症の吃音であり、ほとんど何も喋らずに生きていた〔『どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由』幻戯書房、2013年、108頁〕。1957年、東京大学を受験するが不合格となり、一年間の浪人生活を送る。 1958年4月、東京大学に入学、三鷹寮に入寮。同年6月、和歌山の被差別部落に入って子供たちに勉強を教える。同年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)に加盟。1959年から同大学教養学部で自治会委員長を務める。同委員長の選挙のとき、西部はブントのメンバーたちとともに投票用紙を偽造してすり替え、共産党員の候補を落選させた。全学連の中央執行委員も務め、60年安保闘争に参加。 1961年3月、左翼過激派と訣別。1964年3月、東京大学経済学部卒業。当時、ブントの活動家であった青木昌彦の勧めにより、東京大学大学院に進学、経済学を専攻。指導教官は嘉治元郎。1971年3月、東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程修了。1972年、連合赤軍による群馬県榛名山での集団リンチ殺人事件(山岳ベース事件)の報道を目にして、多少とも左翼に共感していたことへの道徳的反省をせざるをえなくなる〔『寓喩としての人生』175 - 177頁。『妻と僕』61 - 63頁。〕。 横浜国立大学経済学部助教授、東京大学教養学部助教授を歴任。経済学を始めとする社会科学の細分化を一貫して批判する。1975年出版の処女作『ソシオ・エコノミックス』では社会学などの方法論を導入して旧来の経済学を批判。経済行為の象徴的意味の解釈を志向する社会経済学の構築をめざし注目される。その後渡米しカリフォルニア大学バークレー校に在籍。引き続き渡英しケンブリッジ大学に在籍。『蜃気楼の中へ』という米英滞在記を発表。帰国後、1980年代から大衆社会批判を主軸とした保守論者として活動を始め、各方面で発言を続ける。高度大衆社会・アメリカニズム批判と西欧流保守思想の擁護とを基軸にした評論活動を活発に行う。サントリー学芸賞選考委員。1986年、東京大学教養学部教授(社会経済学専攻)に就任。放送大学客員教授も務める。 1988年、中沢新一(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手)を東京大学教養学部助教授に推薦。委員会では通ったが教授会の採決で否決される。これに抗議して同年3月、東京大学を辞任(東大駒場騒動)。その後は評論活動を続けるとともに鈴鹿国際大学客員教授、秀明大学教授・学頭を歴任。 1989年、消費税導入決定前夜、総理の竹下登と会い、消費税導入の決断を迫った〔。 1992年、東京都東村山市が憲法記念日の行事として市主催の講演会を開催することになり西部に講演を依頼した。西部が快諾し講演会の開催が決まったところ、一部市民団体などが「改憲を主張する西部氏を市主催行事の講師に招くということは東村山市が改憲を支持しているに等しい」などと抗議した。これに対し市は「西部氏は東村山市民なので依頼したのであり市が改憲を主張しようということではない」と説明したが市民団体などは抗議を続けた。そこで市は護憲派も講師に招こうと考えたが市内には護憲派の著名人がいなかったため南隣の東京都国分寺市に所在する東京経済大学の教授(当時)で護憲派の色川大吉に依頼した。色川は「西部さんとは旧知で何度も議論しているので是非参加したい」と快諾。市民団体も抗議を止め講演会は無事開催されるに至った。 新しい歴史教科書をつくる会に参加し理事の任を引き受けたものの、当初から会の運動とは一定の距離を置いており理事会などへは出席しなかった。 2001年8月、船橋市立西図書館のある司書が同館所蔵の西部らの多数の著書を廃棄基準に該当しないにもかかわらず除籍・廃棄した(船橋市西図書館蔵書破棄事件)。 西尾幹二が台湾や台湾独立派の金美齢を批判したことを巡って西尾との間で論争に発展した。アメリカニズム、グローバリズム、近代主義への批判は従来から西部の思想の中心を占めていたが、アメリカ同時多発テロ事件以降の日本の親米知識人たちのアメリカ追従姿勢に対する批判は西尾や田久保忠衛らとの対立を招く。 2002年、小林よしのりとともに「つくる会」を脱退。同年、西部は東京西麻布の裏通りにある土地の所有者となり、イタリアンレストラン「ゼフィーロ」という店名で長男の西部一明をオーナー兼支配人として経営させた〔西部邁「レストランの地主となって」『文藝春秋』平成14年6月号〕。同店は2007年4月に営業終了。 雑誌『WiLL』の2011年4月号で大相撲の八百長を擁護した。 2013年3月1日、佐伯啓思・西田昌司・富岡幸一郎との座談会で「自分の咽頭部に癌ができていると最近知った」と述べた〔『表現者』2013年5月号、131頁。〕。同年4月22日、首相公邸で内閣総理大臣の安倍晋三、参議院議員の西田昌司、評論家の西村幸祐と会食をした〔「首相動静 2013年4月22日」『時事通信』〕。 2014年3月、妻が亡くなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西部邁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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