|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 西 : [にし] 【名詞】 1. west ・ 員 : [いん] 1. (n,n-suf) member
西郷 清員(さいごう きよかず、天文2年(1533年) − 文禄3年12月11日(1595年1月21日))は、戦国時代の武将。西郷正勝の子。西郷元正の同母弟。通称、孫九郎。初名は吉員。酒井忠次の妹婿。西川城(愛知県豊橋市石巻西川町、西郷校区)主。子に員好(家員)、員重、守勝。 生涯、家康の覚えめでたい忠勤ぶりを見せた。 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの結果、尾張の織田氏に対して遠江および三河の大半を勢力下に置いていた駿河の今川氏が大敗し、今川氏に所属していた三河の松平氏が独立離反するなど、今川氏の勢力、特に東三河地方での影響力が急速に低下した。 東三河に勢力を持っていた西郷氏の正勝と元正の親子は設楽氏・菅沼氏等の他の東三河国人衆と相語らい、駿河の今川氏傘下を離反し、三河の松平氏に転属した。このため東三河の諸勢力が今川氏に差し出していた人質たち13人(清員の従兄弟である正好を含む)は、吉田城下の龍拈寺で串刺し刑に処せられた。また、永禄5年(1562年)に今川方により西郷氏の居城である五本松城(のちの西川城)や、月ヶ谷城を攻められる。城の陥落と共に父、嫡兄を同時に失い清員も捕らえられたが、隙を見て逃げ出し野田城まで落ち延び、野田城の親族である菅沼氏の援助を受けたとされる。(その頃は松平氏の岡崎に人質に出されており、五本松城陥落時には居なかったともいわれる。)家康から西郷氏の家督を継ぐよう命じられたが、頑なに拒み、幼年の甥・義勝(戦死した兄元正の子)への家督相続を認めさせている。その義勝を守り立て、専横の振舞いも無く、陣代として粉骨砕身の働きを示した。清員に感じ入ったであろう家康は、自身の重臣で「東三河の旗頭」とされた酒井忠次の妹との縁談を勧める。 その後も、母方の従兄弟・菅沼定盈と互いに援け合いながら、たとえ苦境下にあっても家康を見限る事一度も無く、生涯仕え続けた。 元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山虎繁(信友)の侵攻を受けたため、菅沼定盈らと懸命の迎撃戦を展開した。一時的に武田軍を退ける事に成功するが総領義勝は戦死した。 清員の落胆振りは酷かったと伝わるが、義勝にはまだ幼いながらも男子がおり、これを西郷氏の跡目として認めてもらうつもりだった。しかし、家康は今度ばかりは認めず、清員の子である員好を跡目としている。義勝の子が幼すぎたという理由もあるだろうが、実質西郷氏を裁量する清員個人を気に入っていたことも理由として考えられる。跡目に指名された員好がのちに「家」の一字を拝領し家員を名乗ることとなるのも、家康が清員を認めていた証拠の一つとなるだろう。 天正元年(1573年)には、居城を失った菅沼定盈を自領にて匿った。文禄3年(1594年)没。 義勝の未亡人(継室)が家康の側室にと望まれたため、清員は一旦自身の養女としたのち、差し出している。この継室が後に江戸幕府第二代将軍徳川秀忠・松平忠吉の生母となる西郷局である。 == 関連項目 == *菅沼定盈 *設楽貞通 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西郷清員」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|