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西郷 純堯(さいごう すみたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。高城城主。 == 概要 == 西郷氏は菊池氏の一族とされ、戦国時代の頃には、有馬氏配下として肥前の伊佐早荘(現在の諫早市及び北高来郡)に勢力を持ち、有馬氏の東肥前に対する前線を守っていた。有馬氏が衰退し龍造寺氏の勢力が増すと有馬氏から離反し、龍造寺氏へ従うようになる。 永禄5年(1562年)、純堯は有馬義貞に従い、龍造寺隆信を討つため肥前佐嘉城攻略を目指す大友宗麟方として行動する。義貞は軍を二手に分け、一方を大村純忠に率いらせ須古へ、もう一方を純堯に指揮させ多久から小城に進出させた。小城を突こうと丹坂口に向かった純堯は千葉胤連勢と交戦したが、隆信からの援軍もあり激戦となった。有馬勢は数の上では優勢であったが次第に押され始め、ついには潰走し大敗を喫した。純堯は戦線を離脱し、多久を経て藤津へ逃れようとしたが、武雄の後藤貴明が龍造寺方に転じたため、有田へ出て平戸の松浦隆信の支援によって居城へ帰還することができた。翌6年(1563年)、純堯は有馬氏から離反し後藤貴明、松浦隆信と盟約を結び、大村純忠を攻めようとした。これに対して有馬義貞は純堯を討つため、埋津まで攻め込んだ。純堯は多くの犠牲を払いながら有馬勢を撃退した。以後、純堯は有馬氏との抗争を繰り返すこととなる。元亀3年(1572年)7月、大村純忠の三城城を攻める後藤貴明の要請に応じて出兵する(三城七騎籠)。天正2年(1574年)には、大村領の萱瀬へ攻め込み、天正8年(1580年)には弟である深堀純賢と共に鶴城を攻めるが、大村勢の反撃を受け撤退する。 なお、『歴代鎮西要略』によると、天正5年(1577年)、6月下旬、龍造寺隆信が伊佐早侵攻のため出陣してくることを知った純堯は、有馬氏に救援を求めたが、神代氏や島原氏、安富氏が龍造寺方に付いたため、有馬氏は純堯に援軍を出すことを断念した。純堯は自軍のみで龍造寺勢を迎撃することとなったが、龍造寺勢に宇木城を初め多くの支城を攻略される中、兄より先に龍造寺氏に従属していた深堀純賢が調停に入り純堯の降伏が許された。降伏によって、純堯の嫡男・純尚は隆信から偏諱を受け信尚と改めた。純堯は隠居し、ほどなく死去したとされる。これ以後、西郷氏は有馬氏から完全に離反した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西郷純堯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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