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西郷隆盛像 : ミニ英和和英辞書
西郷隆盛像[さいごうたかもりぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
隆盛 : [りゅうせい]
  1. (adj-na,n) prosperity 
: [ぞう]
  1. (n,n-suf) statue 2. image 3. figure 4. picture 5. portrait 

西郷隆盛像 : ウィキペディア日本語版
西郷隆盛像[さいごうたかもりぞう]

西郷隆盛像(さいごうたかもりぞう)は、日本武士軍人政治家である西郷隆盛1828年(文政11年) - 1877年(明治10年))の顕彰を目的として建立された銅像
本項では、特に著名な3体の西郷像について解説する。
== 東京・上野の西郷銅像 ==

東京都台東区上野上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)、鋳造は岡崎雪聲。1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、吉井友実ら薩摩出身者が中心となって建設計画が始まった。宮内省より500円を下賜され、さらに全国2万5千人余の有志の寄付金で建立された。除幕式は西郷の死後21年を経た1898年(明治31年)12月18日に行われた。身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合の遠近感で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。以後「上野の西郷さん」と呼ばれて100年以上も国民に親しまれ、像の意味を少しずつかえつつも現在でも東京タワー新宿高層ビル街とならぶ東京の象徴的光景となっている〔恵美千鶴子 「高村光雲・後藤貞行ほか西郷隆盛像」『国華』第1426号、2014年8月、pp.39-41、〕。銅像には西郷の真実の姿が望まれたが、西郷には信頼性のある写真が一枚も残っていなかった。岡崎によると、キヨッソーネのコンテ画を元に西郷の知己・親戚に一々聞き、石膏像や木彫も幾度も修正して制作を進めたという〔「岡崎雪聲氏の西郷銅像鑄造談」『國民新聞』明治31年(1898年)12月18日6面。〕。銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「''宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ''(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」〔と解釈している。
上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した〔。連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。西郷の体の大きさと比較すると犬は小さく見えるが、実際の薩摩犬は像よりもっと小さく、高村は少し大きめにするよう要望したという〔高村豊周「あとがき」(高村光雲 『木彫七十年』 日本図書センター、2000年、pp.218-236。〕。
上野公園の銅像に対する糸子の発言については、「銅像の顔が本人に似ていないことを意味する」と解釈する説もあるが、昭和50年代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。当時故人を顕彰する銅像の多くが正装で威厳に満ちたものだったのに対し、西郷の銅像は明治維新の元勲のものとしては、あまりに庶民的に過ぎるものである。一時は朝敵とされた西郷の名誉回復の場でもあった銅像除幕で、予想とあまりにかけ離れた服装の銅像に対する驚きと落胆の気持ちの反映であった。当初は皇居内に建てる案もあった西郷像の建造当時、朝敵となったことによる高山樗牛らの反対意見が根強かったことは無視できない。上記大山巌の言い分も、まだ西郷への反感を持つ政治家が多かった時代、明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったと考えられる。
美術史家吉田千鶴子の調べによると、当初「馬上」で「陸軍大将軍服」姿の図様が募集された〔『東京日日新聞』明治22年(1889年)10月11日6面掲載の「募集広告」。〕が、騎馬像とするには資金が足りず、次に「大将服着用の立像」となり雛形まで出来あがったものの、今度は「さる筋から大将服姿に猛烈な反対が起」こり、最終的に現在の姿になったという〔吉田千鶴子 「西郷隆盛の銅像」、『うえの』上野のれん会、1990年1月号所収〕。そこには、西郷の高い人気故に反政府的機運を醸成しかねない動向を逸らし、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする政治的意図が働いていたと見られる。
造像後、西郷隆盛像を目がけて紙玉を投げつけるという奇妙な風習がはやり〔児玉花外 『東京印象記』 1911年(明治44年)8月〕、昭和に入っても鼻に当たると出世すると言われた。見かねた鹿児島県人会らは、清掃を買って出たという。また、関東大震災の時には、尋ね人の貼り紙を貼る掲示板に代わりにされた。その後も金属の価値から犬の像の方を盗もうとする輩が度々表れたが、この企ては成功しなかった〔平瀬礼太 「 尋ね人の貼り紙を貼られた「西郷隆盛像」」『日本経済新聞』、2013年12月16日。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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