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__NOTOC__ 西郷氏(さいごうし)は、日本の姓氏。「西郷」という全国各地に所在する地名を名字とした典型的な地名姓であり、複数の家系の武家が歴史に名を残している。 == 概要 == 中世に荘園公領制が成立すると、それまで令制国のもとに郡があり、その下に郷があるという地方行政組織が再編され、令制国の中に国衙に並列的に直結する郡、郷、保、院、条、別名などといった公領と、荘園領主の支配下にある荘園が割拠する状況が現出した。この状況下で全国各地に国衙領(公領)として「西郷」〔郷の付く姓 、郷 、地名をあるく(78) 郷 〕が数多く成立した。この「西郷」を郷司として支配し、名字の地とした武士が、各地の西郷氏の由来である。 武家として名を残した西郷氏の中では、室町時代の九州北部で勢力を振るった肥前伊佐早荘(後の諫早)の西郷氏が歴史の古い名族として知られる。こちらは、肥前高来郡の国衙領部分が高来東郷と高来西郷に再編された内の後者を出自としており、戦国時代には、より西にある伊佐早荘(後の諫早市と北高来郡に相当)を支配し、大永年間の西郷弾正小弼藤原尚善より記録が確認できる。西郷尚善は有馬貴純の傘下で活動し、次代は有馬晴純の弟の純久が養子となって家を継いだ。西郷純久は享禄・天文年間に有馬晴純の副将格として活動したが、天正年間に活動した子の西郷純堯は、有馬当主の有馬義貞や西郷家と同様に有馬より養子に入って同盟関係にあった大村純忠がキリシタン大名となると離反し、後藤貴明、松浦氏と同盟して大村、長崎に侵攻した。純尭は龍造寺隆信に降ったが、次代を継いだ子の西郷信尚は豊臣秀吉の九州征伐に参陣せず不興を買ったため、秀吉の命を受けた柳川の龍造寺家晴(近世諫早氏の祖)に侵攻され、所領を奪われて島原に逃れたが、その後平戸に移住して子孫は松浦の家臣となった。 菊池氏流の西郷氏は、和氏や大内氏と同じ、百済の第25代王・武寧王の流れを汲む、百済系渡来氏族とする系譜が存在する。 江戸時代以降には、その一族を称する家の中から著名な人物を輩出した。例えば、三河の国人領主から徳川家康に仕えて大名にもなった三河西郷氏や、その分家から会津藩家老を務め幕末に西郷頼母を出した家。肥前西郷氏から古い時代に分かれて薩摩藩の下級藩士になり西郷隆盛を出した家などが挙げられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西郷氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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