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魁輝 薫秀(かいき のぶひで、本名:西野 政章(にしの まさあき)、1952年6月12日- )は、友綱部屋に所属した元大相撲力士。最高位は東関脇(1979年7月場所)。青森県上北郡七戸町(現役時代は天間林村で、場内放送の出身地紹介では〈村〉を省いてアナウンスされていた)出身。 現役時代の体格は182cm、148kg。得意手は右四つ、寄り、突っ張り。血液型はB型、現役時代の愛称は「ニシ」。現在は年寄・友綱 隆登(ともづな たかのり)として友綱部屋を経営し、2006年から2012年1月までは日本相撲協会理事を3期務めていた。2014年3月からは4期目を務めている。 == 来歴・人物 == 1965年、中学校在学中に上京し、13歳で友綱部屋に入門。 出世は早くなかったものの、じっくりと力をつけ、1975年11月場所で新入幕。当時の師匠(元小結・巴潟)の停年に間に合った。 入幕からしばらくは相撲が遅く平幕で低迷していたが、三役昇進を掴んだ頃の相撲は見違えるような速攻であり、この相撲ぶりに対して解説の玉の海梅吉はNHK中継で「いいね。魁輝晩成だね」と洒落を兼ねた賛辞を贈った。 1979年5月場所では、初めての三役となる東小結に昇進し、1点勝ち越して自身唯一の三賞となる敢闘賞を受賞している(なお、彼が三賞受賞者に選ばれたことで、同じく三賞候補者であった玉輝山と双津竜は共に生涯唯一の三賞受賞の機会を逸した)。 翌7月場所では、最高位となる東関脇に昇進した。その場所では3勝12敗と大きく負け越したが、横綱・北の湖と大関・旭國から白星を挙げている。全盛期には、横綱・北の湖(1979年7月場所、11月場所。9月場所では、前頭8枚目に落ちていたことから対戦なし)に連勝した経験も持つ。 その後も、長く幕内で相撲を取ったものの、三役には定着できずに終わった。 1987年3月場所限り、34歳で現役を引退し、年寄・高嶋を襲名。 1989年5月には岳父である先代(元十両・一錦)の停年に伴い友綱部屋を継承し、大関・魁皇、前頭・戦闘竜、同・大刀光、同・魁聖、十両・魁道らを育てた。 ちなみに魁将龍(最高位・幕下6枚目)は彼の長男で、祖父、父に続く関取の三代目を目指していたが、2010年3月場所後に引退した。 日本相撲協会では1990年から14年間勝負審判を務め、2006年の役員改選で理事〔当時立浪・伊勢ヶ濱連合に所属していた元大関の年寄は伊勢ヶ濱、大島、朝日山の3人がおり、元横綱の年寄は安治川がただ1人いるに過ぎなかった。このことから、最高位が関脇であっても特段理事選出馬に支障が無かった。〕に選出、相撲教習所長を務めた。2008年の理事長互選では北の湖続投に当初は反対の意向を示していたが候補者を擁立できず断念し、自らも理事職を続投し、警備本部長・監察委員長を兼務した。2010年2月からは、元横綱・千代の富士の九重親方とともに審判部長を務めた(現役最高位が関脇以下の審判部長は、史上初)。2012年の理事選では落選し、元理事としては珍しく役員待遇ではなく委員へ退いた。2014年の理事候補選では再び立候補し、当選して理事返り咲きを果たした〔北の湖、貴親方ら11人届け出 理事候補選 日刊スポーツ 2014年1月30日(2014年1月31日閲覧)〕〔九重親方が新理事候補選で落選 日刊スポーツ 2014年1月31日(2014年1月31日閲覧)〕〔理事選では、2012年の落選時・2014年の当選時ともに、現職の九重との当落線上争いを繰り広げている。〕。2016年の理事候補選挙には出馬せず役員待遇へ退き、審判部副部長に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「魁輝薫秀」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kaiki Nobuhide 」があります。 スポンサード リンク
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