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見谷 昌禧(みたに まさよし、1938年1月5日 - )は、樺太・真岡生まれの元アルペンスキー選手、スキー指導者、スキージャーナリスト、スキー技術研究家。 見谷スキースクール会長〔。国際スキージャーナリスト協会(AIJS)会員。 == 来歴 == 戦後北海道小樽市に移る〔「人脈北海道・ウインタースポーツ編」〕。小樽潮陵高時代、全国高等学校スキー大会の大回転で優勝する〔。 卒業後、早稲田大学に進み、1959年の第37回全日本スキー選手権大会アルペンスキー競技では、回転で猪谷千春に次いで2位となり、翌1960年のスコーバレーオリンピックの代表に選出される〔〔。同オリンピックでは、アルペンスキーの滑降で53位、大回転で33位となったが、回転では失格した〔「歴史ポケットスポーツ新聞冬季オリンピック」〕。 1962年には、フランス・シャモニーで開催された世界選手権と、スイス・ヴィラールで開催されたユニバーシアードに出場し、世界選手権では回転で21位、大回転で28位、ユニバーシアードでは回転で3位に入賞した〔〔。 大学卒業後、東急電鉄に入社し、系列の白馬観光開発に出向〔。長野県の八方尾根スキー場をホームグラウンドとして、1964年のインスブルックオリンピック出場を目指したが、同地で行われた代表選考会の滑降で転倒して重傷を負い、それが原因となって選手生活を引退〔。程なくして東急も退社し、母校早大の体育局の助手として、スキーの研究と指導に従事する〔。 1969年、早大の先輩で全日本スキー連盟の競技本部長・野崎彊の依頼により、札幌オリンピック日本アルペンチーム強化コーチに就任〔。富井澄博・古川年正らを指導した〔〔。 オリンピック終了後は、プロスキーヤーとしてスキースクールを運営する傍ら、数多くのスキーの技術書・解説書を執筆〔。また、現場主義の立場から、オリンピックやワールドカップなどの国際大会の取材も精力的に行い、ビデオや分解写真などを用いた独自の視点からの解説にはファンも多い〔。技術と経験に裏打ちされたスキー理論にも定評があり、「円錐振り子のテクニック」や「骨盤縦割りのテクニック」などは広く知られている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「見谷昌禧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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