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覚如(かくにょ、覺如〔)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧。本願寺第三世。 「大谷廟堂」の寺院化(本願寺の成立)に尽力し、本願寺を中心とする教団の基礎となった。 本願寺(浄土真宗)の実質的な開祖〔真宗十派の内、高田派・佛光寺派・興正派・山元派・誠照寺派・三門徒派・出雲路派は覚如を歴代に含まない。〕。(一般に開祖は、親鸞とされるが、親鸞自身に開宗の意思は無く。本願寺成立後、覚如が定めた。) 親鸞の末娘である覚信尼の子、覚惠の長男。母は周防権守中原某の娘〔覚如の子である従覚慈俊が記した覚如の伝記『慕帰絵詞』の第一巻に「''母儀は周防権守中原のなにがしとかや號しける其母なり''」とある。(参考文献:国立国会図書館デジタルコレクション 慈俊『慕帰絵々詞』巻一 ・ 『真宗聖教全書』三 歴代部、従覚『慕歸繪詞』巻一、P.773。)〕。親鸞の曾孫にあたる。長男は存覚、次男は従覚。 『報恩講私記』、『本願寺聖人伝絵』(『御伝鈔』・『親鸞伝絵』)、『執持鈔』〔『執持鈔』(しゅうじしょう)〕、『口伝鈔』〔『口伝鈔』(くでんしょう)〕、『改邪鈔』〔『改邪鈔』(がいじゃしょう)〕など多数撰述し、法然の正統な後継者としての親鸞と浄土真宗内における本願寺教団の優位性を主張した。 == 生涯 == 年齢は、数え年。日付は、文献との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とし、南北朝時代の元号は、北朝(京都)で表記する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「覚如」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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