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観世 重賢(かんぜ しげかた、万治元年(1658年)〔表(2008)、p.275〕 - 延享3年4月23日(1746年6月11日))は、江戸時代の猿楽師。12世観世大夫。通称は初め三郎次郎、大夫就任と同時に左門を名乗る〔表(2008)、p.292〕。隠居してのちは服部十郎左衛門、さらに出家して服部周雪と改めた。 宝生家からの養子として観世大夫を嗣ぐが、29歳の若さでその地位を去る。以後は前大夫として尊重を受けつつ京・江戸で隠居暮らしを送り、89歳の長命を保った。 ==生涯== ===観世家の養子に=== 江戸時代、幕府に仕える能役者たちは観世・金春・宝生・金剛・喜多の五座に編成され、世襲の大夫がこれを率いていた。 重賢はその五座の一つ、宝生座の大夫・宝生重友の次男として生を受けた。父・重友は若年より活躍し、56歳で秘曲とされる「関寺小町」を舞い将軍・徳川家綱から褒美を受けるなど、宝生座の地位の向上に果たすところが大きい人物であった〔表(2008)、p.276〕。兄に次代の宝生大夫となった九郎友春、弟に松尾芭蕉門下の俳人・宝生(服部)沾圃がある。 その頃、五座の筆頭である観世座の11世大夫・観世重清は弟の十郎兵衛を養子としていたが、1663年(寛文3年)に先立たれていた。嗣子を定める必要に迫られた重清は、翌年、宝生家から7歳の三郎次郎(重賢)を新たに養子として迎えることとなった〔表(2008)、pp.267-268。なお当該個所では生年の計算をのちのページで改めた関係上、年齢が1つずれている〕。他家出身である三郎次郎が後継者に選ばれた理由としては、実父・重友がかつて10世観世大夫重成に芸の指導を受けていた縁などが推測されている〔表(2008)、p.276〕〔なお観世家の始祖・観阿弥は宝生大夫の弟であり(『申楽談儀』)、重友の4代前の大夫(小宝生)は7世観世大夫元忠(宗節)の実弟であった。8世元尚は小宝生の実子である〕。 1671年(寛文11年)、観世家の嗣子として、江戸城での表能に初めて出勤する。翌1672年(寛文12年)、京都七本松で重清が開催した勧進能では、4日間の日程のうち初日と4日めで「翁」(および脇能)を勤めるなど、15歳ながら重い役割を担った〔表(2008)、p.272〕。以後も江戸城中での能に次期大夫としてたびたび出演するなど、順調な活動を続ける。 1680年(延宝8年)、徳川綱吉の将軍宣下祝賀能では、病気で出勤しなかった養父・重清に代わり、初日に「翁」「高砂」、2日目に「花月」、3日目に「忠度」、4日目に「桜川」を舞うが、重賢にとってはこれが能役者としてもっとも花やかな瞬間だったとも評される〔表(2008)、p.277〕。同時期の3世喜多七大夫宗能の書状を見ると、この頃にはすでに重賢が、事実上観世家の代表者として認識されていたらしい〔表(2008)、p.279〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「観世重賢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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