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観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。 信長の天下布武が実践された最初の戦いであり、直後の京都・畿内平定に大きな影響を与え、事実上の天下人として名乗りを上げる契機となった。この上洛以降を安土桃山時代と区分するならば、観音寺城の戦いは戦国時代最後の合戦といえる。たった一夜で箕作城が落城すると、観音寺城は無血開城し、六角氏は甲賀郡に落ち延びた。 == 開戦の経緯 == 永禄8年(1565年)5月19日、13代将軍足利義輝が自らから太刀をとり奮闘、三好三人衆や松永久秀に討ち取られるという事件(永禄の変)が起こった。義輝の弟である足利義昭は、興福寺一乗院で門跡となっていたが(一乗院覚慶と名乗っていた)、甲賀武士和田惟政らの手引きで奈良を脱出した。以後約3年間にわたる義昭の漂流生活が始まった。 まず義昭は近江甲賀郡和田城へ赴いたが、その後より京都に近い野洲郡矢島に仮御所を構えた。一時は近江の六角義治を頼ろうとしたようだが、三人衆と通じていることを擦知すると、若狭の武田義統および越前の朝倉義景を頼った。越前で名を義昭と改め、義景が動かないと分かると尾張の織田信長を頼った。この時仲介の労を取ったのは明智光秀と言われている。 そんな中、永禄10年(1567年)11月に正親町天皇から信長に綸旨が届いた。内容は尾張・美濃の不地行になっている皇室領の回復を命じるものであった。 正親町天皇からの綸旨をうけた信長は、いよいよ上洛と「天下布武」に向けて動き出した。越前にいる義昭を美濃の立政寺に迎え入れると、永禄11年(1568年)8月5日に岐阜城を出発、精鋭の馬廻り衆250騎を引き連れて、8月7日に佐和山城に着陣した。 上洛する途上には観音寺城があった。信長は、義昭の近臣であった和田惟政に家臣3名をつけて、観音寺城にいる六角義治に義昭の入洛を助けるように使者を送った。しかし、義治と父の六角義賢はこの申し出を拒絶した。信長が着陣する少し前に三人衆と篠原長房が観音寺城に出向き、織田軍の侵攻に対する評議を行っていたのである。拒絶された信長は、再度使者を送って低姿勢で入洛を助けるよう要請した。これには諸説あるが、観音寺城と同じように後の安土城へ家臣を住まわすことや、楽市の発展等信長は六角氏の政治手法を取り込んでおり、そのような先進的な守護との決定的な対立は避けたかったのではないかと言われている。これに対して、義治は三人衆の軍事力をあてにしていたのか、病気を理由に使者に会いもせずに追い返してしまった。7日間佐和山城にいた信長は、ここに至って開戦もやむなしと考え、一旦帰国した。 同年9月7日、軍勢を整えた信長は1万5千の兵を引き連れて岐阜城を出立し、これに三河の徳川家康勢1千、北近江の浅井長政勢3千が加わり、翌9月8日は高宮に、9月11日には愛知川北岸に進出した。この時の織田軍の総数は5-6万とも言われている。 これに対して六角側は、本陣の観音寺城に当主義治、父義賢、弟義定と精鋭の馬廻り衆1千騎を、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力6千を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に3千をそれぞれ配置し、その他被官衆を観音寺城の支城18城に置いて態勢を整えた。六角氏の布陣は、織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測し、そこを観音寺城や箕作城から出撃して挟撃することを狙っていたと思われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「観音寺城の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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