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角屋(すみや)は、もと京都・島原花街(現・京都市下京区)で営業していた揚屋(料亭・饗宴施設)である。建物は国の重要文化財に指定され、1998年より「角屋もてなしの文化美術館」として公開されている。 == 沿革 == 天正17年(1589年)、豊臣秀吉によって柳馬場二条に傾城町「柳町」が開かれ、初代徳右衛門が角屋の営業を始める。慶長7年(1602年)、柳町は突然の移転を強いられ、角屋も六条三筋町へ移転を余儀なくされた。 さらに寛永18年(1641年)、再度柳町は移転となり、角屋は二代目徳右衛門によって現在地の島原へ移された。なお、六条三筋町の所在地(新町五条下ル)は現在も角屋が所有している〔中川徳右衛門『角屋案内記』、長松株式会社発行、1988年4月22日。〕。 明治5年(1872年)まで営業した後、お茶屋に編入された。昭和60年(1985年)まで「松の間」を宴会に使用。 昭和27年(1952年)、島原が開かれて以来現存する唯一の揚屋の遺構として国の重要文化財に指定された(ただし「松の間」のみは大正末期の火災後の再建で、重要文化財には指定されず、2012年に登録有形文化財に登録)。 平成元年(1989年)より1日30人限定で内部を公開しており〔京都新聞「京都・より道スポット」、1999年2月2日。電子版 〕が、平成10年(1998年)4月には「角屋もてなしの文化美術館」が開館し、一般に公開されている。2014年現在、家名は十四代目に継承されており、当代が館長を勤めている。現在一般公開は1階部分のみ。損傷部分の保存を考え、2階座敷見学には事前予約が必要となっている。所蔵品は約1万1千点にのぼる。 隣接する山陰本線高架部分の騒音を巡り、JR西日本との間で長らく係争状態にあったが、平成20年(2008年)に、コンクリート製の高架に砂利を入れる等の対策をとることで騒音の軽減を図るという内容で和解に達した。 江戸時代中期には島原でも俳諧が盛んになり当時の角屋当主(七代目、俳名徳屋)は与謝蕪村を師として招いている。その蕪村がここに残した「紅白梅図」は国の重要文化財として当美術館に展示されている。 他、天明年間前後に制作された円山応挙、石田幽汀などの襖絵も残っている。 幕末には久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、豪商からの資金調達のために接待に使用されていた。 また、新選組もここでの遊興を楽しんだ。特に芹沢鴨との関わり合いは深く、文久3年(1863年)6月ここで暴挙をはたらき、その際に出来た刀傷が今でも残っている〔見学者用パンフレット『角屋』公益財団法人角屋保存会発行。〕。また、芹沢が殺害される直前にここで酒宴を開いている。角屋の前には「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」、「新撰組刀傷の角屋」の石碑が建てられている。 庭内には名物の「臥龍松」という枝の長い松が生えていたが枯れてしまい、現在の松は2代目にあたる。 現役時代を通して「揚屋」「お茶屋」であったため、太夫や芸妓を抱えていたことはない。しかし、現在角屋春秋会(角屋保存を支援する人々の会)会員向けの「角屋鑑賞会」(年2回)の開催時のみ江戸時代後期の太夫の衣装を着けた(現代の太夫の姿とは若干異なる)「八千代太夫」と呼ばれる女性がお茶のお点前や舞を披露している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「角屋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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