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角田 信朗(かくだ のぶあき、1961年4月11日 - )は、日本の男性空手家。大阪府堺市出身。正道会館最高師範(六段)、K-1競技統括プロデューサー、レフェリー。タレント・俳優・歌手としても活動している。奈良県立生駒高等学校、関西外国語大学外国語学部英米語学科卒。娘に熊本県高森町を拠点に活動するご当地アイドル酒粕ガールズ(SKG)のメンバーである角田友里亜がいる。〔写真ニュース:新メンバー3人デビュー 高森をPRするSKG 47NEWS(よんななニュース) 〕。血液型はAB型。 == 来歴 == 中学時代に少林寺拳法に入門。この時に学んだ蹴り等の技術が後に役立ったという。少林寺拳法は二段を取得。その後、高校2年の時に極真空手の芦原道場奈良支部入門。関西外国語大学進学後、兄弟子・石井和義の独立(正道会館)を支える。大学では実戦空手同好会の主将を務める。大学卒業後、サラリーマン(不動産業)、ラーメン屋店員として働きながら、正道会館神戸支部長として空手を続ける。その後、神戸支部長の座を後輩に譲り、本部道場の職員となり師範代となった。 1991年12月7日には、総合格闘技団体リングスに参戦。ヘルマン・レンティングと対戦し、引き分け。その後も1993年7月13日の大会まで継続的に参戦した。 空手家としては、1993年に空手ワールドカップにおいて「負けたら引退」ということをかけてマイケル・トンプソンに挑むが、後ろ回し蹴りにて一本負けを喫した。この時に現役を引退すると会場で告げた。 1995年7月16日に「K-1 LEGEND 翔」のジョー・サン戦にて現役復帰し、KO勝ち。1998年3月22日、愛知県体育館における新日本プロレスの興行で、引退試合を2週間後に控えたアントニオ猪木と公開スパースパーリングを行なった。 2001年、株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約。 K-1選手としては、2003年5月3日に行なわれた「K-1 WORLD GP 2003 in LAS VEGAS」の武蔵戦をもって、2度目の現役引退。 2004年7月7日、「K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメント」で決勝戦で魔裟斗 vs. ブアカーオ・ポー.プラムックの審判員を務めた。ダメージの蓄積した魔裟斗が3Rにはフラフラの状態で戦っていたのにもかかわらず、3R終了時点でジャッジが魔娑斗の負けではなくイーブンの採点をしたため、大会終了後の7月9日に他のジャッジと共に競技統括プロデューサーとして責任を負う形で処分を受けた(魔裟斗はその延長ラウンドで0-3の判定負け)〔[K-1 MAX] 魔裟斗×ブアカーオのミスジャッジに角田Pが処分 BoutReview 2004年7月10日〕。 2005年3月19日に行なわれた「K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL」で2回目の現役復帰。身長差32cm・体重差100kg以上という体格差のある曙と対戦し、2度のダウンを奪われ判定負け。 2005年5月27日、K-1 WORLD GP 2005 in PARISにてマーベリックと対戦し、右フックで1RKO勝ち。 2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 World Championship Tournament FINALのアルバート・クラウス vs. 武田幸三のレフェリーを務めたが、いつも通りのストップの遅さが物議を醸した。11月13日、「レフェリーの判断と一般の視聴者の方、観客の方が考えるダメージに大きく隔たりがあり、混乱をきたした」として角田自らが業務自粛を申し出て、11月11日付けで3か月の業務停止処分を受けた〔【K-1】角田レフェリーが業務停止処分「レフェリーと視聴者の考えるダメージに隔たりがあったため」 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年11月13日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「角田信朗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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