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社青同解放派(しゃせいどうかいほうは)は、1960年代に結成された社青同系の日本の新左翼党派の一つ。中心的な政治組織は革労協。1981年に主流派(狭間派・現代社派)と反主流派(解放派全協・労対派)に分裂した。更に1999年に主流派(狭間派・現代社派)から赤砦社派(木元派・山茂派)が分裂した。 == 概要 == 創始者は、滝口弘人(佐々木慶明)、指導者は中原一(笠原正義)、高見圭司、狭間嘉明ら。機関紙誌は、『解放』(旧『革命』)。学生組織は、反帝学生評議会(反帝学評)。大衆組織は、プロレタリア統一戦線(プロ統)。ヘルメットは青。 新左翼党派としては、唯一、起源が日本共産党にない。又しばしば誤解されているように、安保ブントの残党が社青同に加入したのが起源の一つ、ということもない。そのため、指導部は他の新左翼より10年若い。1960年代前半、無の状態から5年間で全国組織が建設された。 1960年代前半、旧社会党内の構造改革論をめぐる対立が社青同内に持ち込まれ、1964年2月の「社青同第4回大会」では、社会主義協会派が構改派から指導権を奪うなど社青同内での対立が激しくなっていた。そのころから解放派も次第に勢力を伸ばしはじめ、1965年3月に公式に社青同解放派を結成した。社会党東京都本部オルグなどに解放派メンバーが多数起用されたことも、解放派組織拡大に有利に働いた。解放派は協会派と対立を深め、1967年9月3日の東京地本での衝突(九三事件)をはじめ各地で両派の暴力的衝突を引き起こした。1969年10月には解放派は独自に政治組織の革命的労働者協会(社会党社青同解放派)を結成するに至った。革労協結成宣言は公然と社民・民同解体を主張し、1970年以降社会党解放派パージの理由となった。パージを逃れた者も、これ以降社会党内で解放派として活動することはできなくなった。社青同では、1971年2月の第10回大会でついに集団除名され、解放派は71年9月独自に「社青同第10回再建大会」を開催し、自派傘下の社青同を結成した。機関紙は「団結の砦」。こうして解放派は1970年代に入って社会党・社青同内の分派としての実態を失った。 他の多くの新左翼が、トロツキーあるいはレーニンのマルクス・レーニン主義路線をとるのに対して、解放派は、第一インターの正統派マルクス主義復権の立場に立ち、ボルシェヴィキ的な前衛党による外部注入的な大衆指導路線を批判する反ボルシェヴィズム(反レーニン主義)、ローザ・ルクセンブルク主義、左翼共産主義、労働者反対派(アレクサンドラ・コロンタイなど)的立場である。 しばしば誤解されているが、外部注入論を否定しているからといっても、前衛的部分の組織化を否定していたわけではない、共産主義通信委員会という前衛的組織が存在していたのである。 更に、他の新左翼全てが、自らを新左翼と呼称し、自らを社共に変わる真の前衛・共産党と意識していた結果、共産党のことを代々木と呼ぶのに対して、解放派は平然と日共と呼称していた、このあたりにも、意識の微妙な違いが見て取れる。また、他党派の実力闘争に関しても革マル派は「権力の走狗」と罵倒、中核派はほとんど言及しないのに対して、解放派は機関紙上で肯定的に言及することがしばしばある〔一例として、連合赤軍に対し「あくまで革命運動の歪曲と破産であって反革命と切り捨ててはならない。彼等は破産しつつも、最後の力を振りしぼって権力への徹底抗戦をやりぬいた」(「解放」91号 )と言及している。〕。 巷では社青同解放派=革命的労働者協会(革労協)と同一であるとみなされがちだが、正確には違う。解放派という潮流の中心組織が革労協であることは間違いはないけれども、協会派に近い左派社民のグループから極左暴力路線の革労協最左派(=学生委員会中心で武装闘争の強化を唱える集団)までを内包した統一戦線が解放派と呼ばれた。 このように様々な潮流を内包したからこそ、組織内では常に紛争が絶えなかったという見方もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「社青同解放派」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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