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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 言 : [げん] 【名詞】 1. word 2. remark 3. statement ・ 言文一致 : [げんぶんいっち] (n) unification of the written and spoken forms of a language ・ 文 : [ぶん] 【名詞】 1. sentence ・ 一 : [いち] 1. (num) one ・ 運 : [うん] 【名詞】 1. fortune 2. luck ・ 動 : [どう] 【名詞】 1. motion 2. change 3. confusion
言文一致(げんぶんいっち)とは、日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書くこと、もしくはその結果、口語体で書かれた文章のことを指す。口語体で書かれた文章を口語文という。 ただし、話した通りそのままに文章として書くという意味ではない。 音声言語とそれに対応する文字言語をともにもつ言語にて問題となる。日本語で特に注釈なく用いられた場合、この語は日本語での言文一致をさす。以下の記述でも同様である。 日本語を主要な言語とする日本では、明治時代に言文一致運動の高揚からそれまで用いられてきた文語文に代わって行われるようになった。言文一致運動とは言文一致を実践することを主旨とする。したがって、言文一致の実践は言文一致運動と不可分だった。文脈によっては主に言文一致運動の意味で言文一致の語が用いられている場合がある。 == 日本語における言文一致 == 日本語の古典的な文体である文語は主に平安時代までに完成した。中世以降、次第に話し言葉との乖離が大きくなっていった。 明治時代には、文学者の中から改革運動(言文一致運動)が起こった。言文一致小説の嚆矢は、坪内逍遥に刺激を受けた二葉亭四迷の『浮雲』などである。二葉亭が『浮雲』(1887年)を書く際には、初代円朝師匠の落語を速記法により筆記した、落語家の初代三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にしたという。 また、ツルゲーネフなどロシア文学作品を翻訳した文体も既存の文語からの離脱の試みである。 当時は二葉亭以外にも、多くの作家が言文一致の新文体を模索した。その中でも、山田美妙における「です・ます」調の試みは、もうひとつの日本語表現の可能性として、小説言語の主流にはならなかったものの、後世へ大きな影響を与えた。若松賤子が「小公子」の翻訳で試みた「ありませんかった」のような文体も当時の注目を浴びたが、これは受け継ぐものが現れなかった。 しかし、そのころはまだ文語文の作品も多く書かれている。和歌の塾に通い、古典の教養を持っていた樋口一葉は古文の呼吸をつかった雅文体で「にごりえ」「たけくらべ」などの作品を書いている。翻訳で言文一致を試みた森鴎外も、「舞姫」や「即興詩人」では文語にもどしている。評論の分野では北村透谷や幸徳秋水は、漢文書き下しの文体を使って論文を書いていた。その点では、言文一致の運動がすぐに時代の主流になったわけではなかった。 このような新文体への挑戦は文学の分野で作家たちだけがしていたのではなく、当時の新聞や雑誌記事などでも並行的に行なわれていた。特に従軍記者による戦地レポートや、速記による裁判の傍聴記録などで、積極的に言文一致の新文体が試みられていた。その結果、明治末になるとそれらは書き言葉として次第に確立し、一般の文章にも大きな影響を与えるようになった。自然主義文学の運動も、その普及に一役買った。 しかし、法律の言語は、戦前では文語文を用いて記述されていた。戦後は口語体となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「言文一致」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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