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許 世英(きょ せいえい)は、清末、中華民国の政治家・外交官。北京政府では安徽派に属し、一時は国務院総理もつとめたことがある。国民政府では駐日大使となった。字は俊人、静仁。 == 事跡 == === 清末の事跡 === 比較的富裕な地主の家に生まれる。1891年(光緒17年)に秀才となったが、郷試には2度落第した。1897年(光緒23年)に抜貢(地方の優秀な生徒を選抜して京師に派遣すること)に選ばれ、同年の礼部における官吏登用試験に首席合格した。翌年、刑部広西司副主稿、主稿を歴任し、さらに直隷司主稿となる。以後も、四川省などでも官職を歴任し、1902年(光緒28年)に刑部六品主事に昇進した。 1905年(光緒31年)10月、清朝が巡警部門を新設すると、北京外城巡警総庁庁丞朱啓鈐の推薦により、許世英は同庁行政処検事に就任した。1906年(光緒32年)の年末審査により、京察一等の評価を受け、四品任用の資格を得た。1907年(光緒33年)4月、東三省総督徐世昌に任用され、東三省での司法機構創設の準備に従事する。翌年に奉天高等審判庁庁丞に任命された。この時、日本駐奉天領事広田弘毅、副領事有田八郎と知り合っている。 1910年(宣統2年)春、許世英は徐謙らとともに、司法と監獄の実情視察のため欧州各国を視察した。帰国後の1911年(宣統3年)11月、山西布政使に任じられた。まもなく袁世凱を支持して、山西巡撫張錫鑾とともに宣統帝退位を求める文書に名を列ねた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「許世英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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