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許 修直(きょ しゅうちょく)は中華民国の政治家。旧名は卓然。字は西渓。 == 事跡 == 日本に留学、中央大学法科を卒業した。なお留学中に中国同盟会に加入している。帰国後は、江蘇提法司科長、蘇州私立法政学堂教習、浙江高等審判庁推事、同代理庁長、浙江官立法政学堂教習、大理院推事を歴任した。〔徐主編(2007)、1683頁。〕〔東亜問題調査会編(1941)、41頁。〕 1924年(民国13年)11月、黄郛に起用されて国務院印鋳局局長となる。以後、黄の腹心として活動することになった。1927年(民国16年)、国民政府に転じ上海市法制室主任となる。同年10月、交通部秘書長となった。翌年12月、交通部参事となる。1933年(民国22年)、行政院駐北平政務整理委員会委員(委員長:黄郛)にも任ぜられ、日本との折衝にもあたった。1935年(民国24年)7月、内政部長の黄の下で内政部常務次長に昇格した。翌年2月、病気により辞任した黄に従う形で許修直も辞任している。〔〔 日中戦争勃発後の1937年(民国26年)12月、中華民国臨時政府新民会厚生部長となる。翌年1月、行政委員会調査処処長となった。3月、中華民国維新政府で行政院司法行政部部長に任命されたが、これは受けなかった。同年7月、華北電信電話株式会社副総裁となる。このほか、北京華僑協会理事などをつとめた〔この間、各職の就任状況は資料により異なる。本記事は主に東亜問題調査会編(1941)、41頁に拠った。〕。1939年以降の動向はしばらく不詳となるが、1945年(民国34年)2月、汪兆銘政権の北京特別市市長に任ぜられている。汪兆銘政権崩壊後の動向は不詳だが、1954年に北京で死去した。享年74。〔〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「許修直」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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