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許 崇智(きょ すうち)は清末民初の軍人・政治家。主に初期の中国国民党における有力な軍指揮官であった。字は汝為。祖父と父は福建省で通判をつとめ、一族の許応騤は、清末の閩浙総督である。親族には、堂兄(父方の従兄)で軍人・政治家の許崇灝、堂弟(父方の従弟)で国立中山大学校長などをつとめた教育者の許崇清などがいる。 == 事跡 == === 清末から二次革命までの事跡 === 1899年(光緒25年)、許崇智は許応騤の紹介により、福建馬尾船政学堂に入学した。その後、許応騤の援助により日本に留学し、成城学校陸軍科で学ぶ。1902年(光緒28年)に陸軍士官学校の第3期歩兵科に入学した。卒業、帰国した頃に許応騤は死去したが、許崇智は福建武備学堂総弁の孫道仁に目をかけられ、同学堂の教習に任命される。まもなく総教習に昇進した。さらに、許崇智は第10鎮第40標統帯に任命され、まもなく同鎮第20協統領に昇進した。 1911年(宣統3年)、福建の中国同盟会支部に許崇智は加入した。同年10月に武昌起義が発生すると、福州でも革命派が11月8日に決起した。この時、許は蜂起軍の前敵総司令となり、2日の戦闘の末に福州を掌握した。福建軍政府が11月11日に成立すると、孫道仁が都督となり、許は福建海陸軍総司令に任命された。その後まもなく、許は福建第1師師長となっている。 1912年(民国元年)1月に中華民国臨時政府が成立すると、福建第1師は民国陸軍第14師に改編され、許崇智がそのまま師長をつとめた。しかし、袁世凱が臨時大総統となると、許を篭絡しようと北京へ召還している。その後、許は日本を一時訪問し、帰国後に上海で孫文と対面する。その際に宋教仁が暗殺されたと知ると、許は怒って袁打倒を目論み福州へ戻った。 1913年(民国2年)7月、二次革命(第二革命)が勃発すると、袁世凱は許崇智に革命派を攻撃させようとしたが、許はこれを拒む。そして許は革命派に呼応し、都督の孫道仁に福建独立を宣言させた。しかし革命派は敗北し、許もまた8月に上海へ逃走して、率いていた陸軍第14師は袁により解散させられてしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「許崇智」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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