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許 衡(きょ こう、1209年5月8日 - 1281年3月23日)は、元代初期の中国の学者。字は仲平。魯斎先生とも称する。諡は文正。 == 生涯 == 懐州河内県(現河南省沁陽市)の出身。16歳の時に学問を志し儒学の経典を一心に研究するようになる。1232年にモンゴルが金国を破り新鄭に攻め込んだ時に捕虜となるが、すぐに釈放される。その6年後に蘇門に住むようになり有名な隠士の竇黙に出会っている。 1242年に柳城の姚枢に会って程頤の『易経』、朱熹の『四書章句集注』『小学』などの書物を知り、お互いに経・伝・子・史・暦・礼楽・兵刑・食貨・水利について論じる。1254年にクビライが宣抚司を置いた時に京兆地方の提学となり、文教政策に尽力する。1258年に河内に移住。1260年にフビライが即位すると召されて北上し、太子太保・国子祭酒・議事中書(中書左丞)などを歴任。その間、朝儀官制を制定しモンゴル朝廷の中国化に意を用いた。阿合馬が平章政事となり専権をふるった時に議論が合わず、降格される。さらに至元元年(1264年)に阿合馬を弾劾するがフビライに斥けられたので、病と称して辞任する。至元8年(1272年)に再び起用され集賢大学士に国子祭酒を兼任し、モンゴル貴族の子弟の教育にあたる。至元10年(1274年)に辞任して懐州に帰るが至元13年(1277年)にまたも大都に召されて太子院とされる。当時モンゴルが金国から継承して使用していた大明暦を改めるべく、王恂・郭守敬とともに新暦の作成に着手、至元17年(1280年)に退官し、翌年に没する。 フビライの招きに応じた許衡について、日本の儒学者である浅見絅斎はその著『靖献遺言』の中で、「夷狄に仕えて大義を失った」と批判するが、一方、伊藤仁斎は許衡には許衡なりの苦衷があるとし、宋の程顥・笵仲淹とともに古今三大賢の一人に数える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「許衡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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