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説文解字(せつもんかいじ、)は、最古の部首別漢字字典。略して説文(せつもん、)ともいう。後漢の許慎(きょしん)の作で、和帝の永元12年(西暦100年)に成立し、建光元年(121年)に許慎の子の許沖が安帝に奉った。本文14篇・叙(序)1篇の15篇からなり、叙によれば小篆の見出し字9353字、重文(古文・籀文および他の異体字)1163字を収録する(現行本ではこれより少し字数が多い)。漢字を540の部首に分けて体系付け、その成り立ちを解説し、字の本義を記す。 現在から見ると俗説や五行説等に基づく牽強付会で解説している部分もあるが、新たな研究成果でその誤謬は修正されつつも、現在でもその価値は減じていない。 == 『説文解字』成立の背景 == 前漢の儒教では五経博士が家法によって経書を講釈していた。やがて孔子旧宅の壁中や民間から、博士が教えるものとは違うテキストが発見された。これは、先秦時代の古い書体で書かれていたので、通行の隷書体(今文)のテキストに対して古文経伝と呼ばれた。前漢末の劉歆はこれを学官に立てようとして既存の博士たちと対立したが、平帝の時代と王莽の新朝で学官に立てられた。しかし、後漢では王莽政権を否定するため、今文学が継承され、古文経伝に学官が立てられることはなかった。そのため、古文学は民間で行われるようになり、経文の一字一句を解釈する訓詁学を発展させた。その強みは今文経学が一経専門で視野が狭いのに対して、文字に還元することで六経全般に貫通する解釈を打ち出せることであった。そのような状況で古文学者の賈逵の弟子に許慎が出た。彼は古文学の正統性を字体の違いに見いだし、古い先秦の字体に基づくことを今文学を攻撃する道具とした。そして、篆書や古文を『説文解字』にまとめ、『周礼』古文義法の六書説に従った「字形」による文字解釈の方法を確立させたのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「説文解字」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shuowen Jiezi 」があります。 スポンサード リンク
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