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調所 広郷(ずしょ ひろさと、安永5年2月5日(1776年3月24日) - 嘉永元年12月19日(1849年1月13日))は、江戸時代後期の薩摩藩の家老。諱ははじめ恒篤、後に広郷(廣郷)。通称は清八、友治、笑悦、笑左衛門。当時の呼称は調所笑左衛門が一般的。 == 生涯 == 城下士・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれ、天明8年(1788年)に城下士・調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、寛政10年(1798年)に江戸へ出府し、隠居していた前藩主・島津重豪にその才能を見出されて登用される。ちなみに養父・清悦は同年11月27日に江戸で死去し〔「鹿児島県史料集 薩陽過去帳」参照。養父の法号は良泰院禅応喚宗居士。〕、この年に家督相続したものと思われる。 後に藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。弘化3年7月27日には志布志郷地頭となり、死ぬまで兼職する。 当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。一部商人資本に対しては交換条件として、この密貿易品を優先的に扱わせ、踏み倒すどころかむしろ利益を上げさせている。そして大島・徳之島などから取れる砂糖の専売制を行って大坂の砂糖問屋の関与の排除を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。 やがて、斉興の後継を巡る島津斉彬と島津久光による争いがお家騒動(後のお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであると言われている。 斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易(藩直轄地の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易)に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。 嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる。 死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。葬所は養父清悦と同じ江戸芝の泉谷山大円寺。法号は全機院殿敷績顕功大居士。現在の墓所は鹿児島市内の福昌寺跡。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「調所広郷」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Zusho Hirosato 」があります。 スポンサード リンク
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