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諏訪 頼保(すわ よりやす)は、信濃諏訪藩の家老。諏訪図書家第8代。お家騒動「二の丸騒動」で切腹を命じられる。通称は、諏訪大助。 == 生涯 == 延享元年(1744年)、諏訪藩家老・諏訪図書家第7代頼英の長男として生まれる。生家の諏訪図書家は、初代藩主頼水の弟頼雄に始まる家で、図書を通称とし、高島城二の丸に屋敷があったことから、諏訪図書家、あるいは二の丸家と呼ばれ、1200石を知行し代々家老を務める家柄であった。藩内には、同じく高島城三の丸に屋敷があることから、三の丸家と呼ばれ、1200石を知行し家老を務める千野家があり、両家は二派に別れて対立していた。 藩主忠厚には長男軍次郎、次男鶴蔵の二子があり、三の丸家の千野貞亮は長男軍次郎を、頼保は藩主忠厚の寵愛する次男鶴蔵を跡目にしようと対立。天明元年(1781年)1月、貞亮は江戸に出府して、藩主忠厚に訴えようと試みたが、藩主側近の渡辺助左衛門等に阻まれて帰国を命じられた。次に、頼保と父頼英は、江戸出府を命じられ、忠厚に貞亮の非を訴え、同年5月、貞亮は家老を罷免され隠居を命じられた。 同年8月、密かに国元を抜け出した貞亮は、忠厚の妹婿・奏者番松平乗完の屋敷に駆け込み訴え出た。乗完より、老中田沼意知の耳に入り、老中会議の結果、頼保に非があるとされ、天明3年(1783年)7月3日切腹。父頼英と子の頼屋、頼泰も永牢となり図書家は家名断絶となる。末子の頼覚は5歳の幼児であることから連座を免れた。この騒動を「二の丸騒動」と呼ぶ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諏訪頼保」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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