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諏訪頼忠[すわ よりただ]
諏訪 頼忠(すわ よりただ)は戦国時代から江戸時代初期の武将。 == 生涯 == 信濃国諏訪氏の一族。天文11年(1542年)6月、諏訪氏の当主で、頼忠の従兄にあたる頼重は、甲斐国の武田信玄の諏訪侵攻で自害する。父・満隣は頼重を助け、高遠頼継・矢島満清らが諏訪大社上社の大祝の簒奪を画策すると、これに対して頼重の遺児・千代宮丸(虎王丸)を擁立した。その後、満隣の動向は不明〔平山(2015)、p.410〕。満隣の子では頼忠のほか頼豊・頼辰もそれぞれ武田家に仕えている〔。 諏訪大社の大祝は頼重の弟・頼高が務めるが頼高は天文11年(1542年)に殺害され、『当社神幸記』によれば、同年12月以前には頼忠が諏訪大社上社の大祝となり、12月7日には諏訪明神御渡の注進を行っている〔。〔頼忠は流浪したとする説もある。〕。『当社神幸記』によれば、天文16年(1547年)1月11日時点で「頼忠」を名乗っている〔。永禄7年(1564年)7月19日には武田氏の飛騨侵攻に際して信玄から祈祷を依頼されている〔。永禄8年(1565年)12月・永禄9年(1566年)には諏訪大社上社や末社の祭礼再興に尽力している〔。天正6年(1578年)・天正7年(1579年)には武田勝頼により諏訪大社の造営が実施され、頼忠もこれに携わっている〔。 天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡した際に兄が戦死し、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、河尻秀隆の郡代弓削重蔵を駆逐し、信濃高島城(旧城)に入って諏訪氏の家督を継ぎ〔、信濃の混乱(天正壬午の乱)に乗じて侵攻した徳川家康に対抗して〔北条氏政に接近し再起を図ろうとした。しかし12月、酒井忠次、小笠原信嶺ら家康の信濃平定軍に敗れて和睦〔の形で臣従し、翌天正11年(1583年)3月に諏訪郡を所領として安堵されることとなった〔。 天正18年(1590年)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い、武蔵比企郡奈良梨、児玉郡蛭川、埼玉郡羽生に計1万2000石の所領を与えられた。文禄元年(1592年)には上野総社に所領を移される。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役を務めた〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諏訪頼忠」の詳細全文を読む
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