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諸橋 晋六(もろはし しんろく、1922年7月13日 - 2013年6月23日)は、東京府北豊島郡出身の実業家、サッカー選手。 == 来歴 == 東京府北豊島郡高田町で五人兄弟の三男(兄2人、姉1人、妹1人)として生まれた〔。父は後に大漢和辞典の編者となる諸橋轍次、母・キンは小千谷縮の商家の出身であり、詩人の西脇順三郎は母の従兄弟であった〔履歴書 p.328〕。自宅の近くに菊池寛の居宅があり、幼少期は菊池の息子の英樹とよく遊んでいた〔履歴書 p.328〕。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校、1935年卒業)では鶴見俊輔や中井英夫などが同級生であった〔「哲学者の鶴見俊輔さん(ことば抄)」 朝日新聞、1996年12月28日、2014年8月5日閲覧〕。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の3年生よりサッカーを始め、4年生でレギュラーとなり、5年生で主将を務め〔履歴書 p.334〕、1940年に中学を卒業した。 中学卒業後は旧制高等学校を受験したが、1940年および1941年と2年連続で受験に失敗して浪人生活を送った。浪人時代の友人に上掲の中井がいた〔履歴書 p.335-336〕。1942年も旧制高等学校の受験に失敗したものの、上智大学経済学部経済学科に合格して同大学に進学した〔〔履歴書 p.336〕。なお、後に文部大臣を務めた永井道雄が同学年に当たる〔履歴書 p.337〕。大学時代はサッカー部に所属し、東京都大学サッカーリーグでプレーした〔履歴書 p.339〕。 1943年11月、太平洋戦争に伴って兵役に就き、同年12月より福島県、宮城県で訓練を受けた〔履歴書 p.341〕。1944年12月に見習士官となり、1945年8月の終戦を兵庫県加古川で迎え、同年10月に東京の自宅へ戻った〔履歴書 p.342〕。終戦後は上智大学に復学して1947年に卒業した〔が、同期入学120名の内で卒業したのは28名であった〔。 大学卒業後の1947年に三菱商事へ入社したが、後に諸橋は父の口添えがあったのではないかと語っている〔履歴書 p.346〕。入社後は同社サッカー部に所属し、1947年には加茂健らと共に開催された関東実業団サッカー大会の優勝メンバーに名を連ねた〔〔履歴書 p.390〕。 1958年にマニラに赴任。一度東京に戻った後、1964年よりロンドンに赴任した。なお、ロンドン駐在時に元日本代表で三菱化成社長(当時)であった篠島秀雄の協力を得て『三菱ダイヤモンド・サッカー』(テレビ東京)の番組開始に尽力した〔履歴書 p.391〕。 その後はマニラ支店長およびロンドン支店長、欧州三菱商事の副社長を務めた。1980年6月に三菱商事の取締役兼ロンドン支店長〔、1983年6月に常務取締役〔、1985年6月に副社長を歴任〔三菱商事 有価証券報告書(1997年3月期)、2014年8月11日閲覧〕。 1986年11月、社長(当時)の近藤健男が就任後5か月で死去したのに伴い、社長に就任した〔〔「諸橋晋六さん 三菱商事社長に就任(ひと)」 朝日新聞、1986年11月26日、2014年8月5日閲覧〕。1992年6月に社長を退任して、取締役会長に就任〔。1998年より相談役、2004年より特別顧問をそれぞれ務めた。また、2001年には勲一等瑞宝章を受章し、同年中に日本サッカー協会の4級審判のライセンスを取得した。 2013年6月23日、心不全のため死去。2014年8月、日本サッカー殿堂に特別選考により選出された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諸橋晋六」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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