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諸葛 (しょかつ せい、生没年不詳、は+見)は、中国三国時代に魏・呉に仕えた武将。字は仲思といい、諸葛誕の末子であり、諸葛頤・諸葛恢の父である。諸葛瑾・諸葛亮とは同族にあたる。 晋の武帝司馬炎とは幼なじみであったようである。 ==生涯== 257年に諸葛誕が、司馬昭に対して反乱を起こしたため、救援を得るための人質として呉に送られた。翌年、諸葛誕の乱が鎮圧されると、父は討ち死にし三族は皆殺しとなった。そのため、行き場を失った諸葛はそのまま呉に留まり、仕官することとなった。 孫皓が皇帝に擁立されると、諸葛は重用され呉の官職を歴任し、右将軍に昇った。 265年9月、孫皓が建業から荊州の武昌に遷都した際、左御史大夫の丁固と共に建業の守りを任された。 266年10月、永安の山賊である施但らが反乱を起こし、孫皓の異母弟である永安侯孫謙を脅迫して同行させ、一万余の徒党を率いて建業に攻め上った。施但は孫謙を皇帝に立てて勅命を出させたが、諸葛はただちにその使者を斬った。 さらに丁固と共にこれを牛屯で迎え撃って散々に破り、孫謙を保護したが、孫謙は自殺した。(呉歴には孫皓による毒殺とある) 268年、丁奉と共に合肥に出撃するが、特にこれといった戦果は記されていない。 280年、晋が六方向より大挙して攻めてきたので、諸葛は大司馬・副軍師として丞相張悌・丹陽太守沈瑩・護軍将軍孫震と共に三万の兵を率いて長江を渡り、晋の城陽都尉である張喬率いる7千の軍を包囲攻撃をしてこれを降伏させた。 諸葛はこの際、張喬らは切羽詰って援軍が直ぐには来ないために一時的に降伏したに過ぎず、全員穴埋めにして全軍の士気を挙げるべきだと主張したが、聞き入れられなかった。 その後、沈瑩は青巾兵と呼ばれる精鋭5千を率いて晋の軍を攻撃したが、三度攻撃をかけても落とすことは出来ず、撤退しようとしたところで軍が混乱を起こし、それに乗じて晋軍が攻撃を仕掛けてきたため、沈瑩の軍は壊滅した。これを契機とし、呉の他の軍も次々に敗れ去り、一度は降った張喬らもやはり裏切って、背後から呉の軍を攻撃した。 諸葛は5・600の敗残兵を取りまとめて撤退しようとし、張悌の下に共に逃げるように使者を送ったが、張悌はその場を動こうとしなかった。 諸葛は自ら赴いて張悌の袖を引っ張って説得し、撤退しようとしたが、張悌はこれを拒絶したため、涙を流して袖を離した。 張悌はそのまま晋軍に突撃し、戦死した。その後、諸葛靚は孫奕らとともに司馬伷に降伏した。 呉が晋によって滅ぼされると、司馬炎は昔の誼もあり、彼を大司馬に取り立てようとしたが固持して受け入れず、そのまま隠遁してしまった。晋への恨みを忘れず、決して晋の都である洛陽のある方向を向かなかったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諸葛セイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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