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諸葛 信澄(もろくず のぶずみ〔藤野、3頁。〕、1849年10月21日(嘉永2年9月6日) - 1880年(明治13年)12月21日)は明治時代の日本の教育者。官立東京師範学校(筑波大学の前身の一つ)および官立大阪師範学校の校長を務めた。通称・一郎、号は秋芳〔藤野、34頁。〕。 == 来歴 == 嘉永2年9月6日(1849年10月21日)、長府藩に仕える絵師・諸葛秋錦(諱は信軌、通称・力斎)の子として長門国長府に生まれる。乃木希典とともに藩学集童場で学んだのち長府藩報国隊器械方となり、明治元年(1868年)には北越戦争に参加した〔藤野、13-14頁、31-34頁。〕。 明治2年(1869年)、開成学校に入って英書を学び、明治4年(1871年)に文部省が新設されると文部少助教に就任〔藤野、14頁。〕。ほどなく文部省九等出仕となった〔 『袖珍官員録 辛未十一月二十八日改 』 79丁表。〕。以後、翌年4月に文部省八等出仕、明治6年(1873年)11月に文部省七等出仕に進み、明治8年(1875年)10月に免出仕となるまで同省に在職〔『官員全書 文部省 壬申六月廿日改 』。『太政官日誌』明治6年第151号、10頁 。『太政官日誌』明治8年第127号、2頁 。〕。この間、明治5年(1872年)に中小学掛となったのち、同年8月に師範学校掛を命じられ、5月に新設されたばかりの官立師範学校(翌年8月に東京師範学校と改称)校長に就任〔倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、632-637頁。〕。御雇教師マリオン・スコットの指導のもと米国式の一斉教授法を実施し、その内容を『小学教師必携』にまとめた。明治8年4月には官立大阪師範学校長に転じている〔橋本美保著 『明治初期におけるアメリカ教育情報受容の研究』 風間書房、1998年3月、ISBN 475991076X、199頁。〕。 明治9年(1876年)6月、華族学校(学習院)開校に先立ち華族会館より学監心得を命じられ、11月には学監に進んだが、開校前の翌年5月に解任となった〔学習院百年史編纂委員会編 『学習院百年史 第一巻』 学習院、1981年3月、82頁、85頁、88頁。〕。その後、明治13年(1880年)9月に東京株式取引所肝煎に選出されるも〔東京株式取引所編 『東京株式取引所五十年史』 東京株式取引所、1928年10月、246頁。〕、病のため同年12月21日に死去した。享年32。墓所は東京都文京区の大林寺にあり、境内には顕彰碑も建設されている〔藤野、12頁、15頁。〕。森村銀行頭取を務めた諸葛小弥太は弟〔藤野、42頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諸葛信澄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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