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諸葛 均(しょかつ きん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。蜀漢に仕えた。泰山郡丞諸葛珪の子。呉の諸葛瑾・蜀の諸葛亮の弟〔清の学者であった張澍が記した『諸葛忠武侯文集』の内、「諸葛氏譜」・『編集諸葛忠武侯文集自序』によれば、諸葛均は諸葛望という子がいたとあり、また、妻は南陽の人で、林氏または習氏であったと記されている。父の名も「諸葛硅」または「諸葛」で、没年が187年と記されている(帝京大学教授の尾崎康が引用する『九路本儒学刊十七史』(元の大徳10年刊行の池州路儒学刊本による)では、字は「子貢」と表記されている)。さらに、兄の諸葛瑾の名が「諸葛謹」、字は「子愈」(『呉書』諸葛瑾伝では「子瑜」)と表記されている。〕。 幼い時に父と生母の章氏が亡くなり、兄の諸葛亮と共に従父(叔父)の諸葛玄を頼った。やがて、その叔父も劉繇と争い、笮融が煽動した西城の住民反乱で戦死すると、諸葛亮と共に荊州の劉表を頼った〔『献帝春秋』および『呉書』劉繇伝による。だが、本伝の『蜀書』諸葛亮伝と内容が大きく異なっている。〕。 以降は兄と南陽郡の隆中で暮らしたが、後に諸葛亮が劉備に仕えると、彼も劉備の家臣となった。長水校尉にまで昇進した。 ==三国志演義== 通俗小説『三国志演義』では、劉備らが諸葛亮の下へ赴いた時に登場し、初対面の劉備に諸葛亮本人と勘違いされている。諸葛亮が劉備の下へ赴いた後は、隆中の家の留守を命じられており、後に荊州へ侵攻した曹操が諸葛亮の家族の捜索を始めた時には、兄から事前の指示があったため辛くも逃れたことになっている。兄と同じく劉備へ仕えることにしたかどうかは、物語中では言及されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諸葛均」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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