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諸葛 融(しょかつ ゆう、? - 253年)は、三国時代の呉の武将。字は叔長。本籍は徐州琅邪国(琅邪郡)陽都県(現在の山東省沂南県)。父は呉の大将軍諸葛瑾。叔父に蜀漢の丞相諸葛亮ら。兄に呉の太傅諸葛恪、蜀漢に移り諸葛亮の養子になった諸葛喬。系図も参照。 == 生涯 == 諸葛融は性格が寛容で、高貴な環境で寵愛されて成長して、若い時に何でもほしいままに楽しみ事を追いかけ、経書の解釈を学びはしたが、何でも知ってるかわりにあまり精確でなかった。鷹揚な性格で、さまざまな技芸に通じ、まだ正式な官位につかないうちに孫権の呼び出しに応じてしばしば御前にはべり、のちに正式に騎都尉の官を授けられた。赤烏年間、新都都尉の陳表と呉郡都尉の顧承は部隊を率いて毗陵にて屯田を開き、男女あわせて数万人が耕作に従事した。陳表が病死した後に、孫権は諸葛融に命じて陳表のあとを継がせた。 赤烏4年(241年)、父の諸葛瑾が逝去し、兄の諸葛恪は既に侯に封ぜられていたので、諸葛融が父の爵位を受け継いで、公安督として父の部隊の兵士達を取りまとめて公安に駐屯した。赤烏13年(250年)、魏の王昶が江陵に攻めてくると、施績(朱績)は迎撃したが敗れ、江陵城に撤退したが、陸凱らの援軍もあって王昶は江陵城を攻めきれずに撤兵した。施績は諸葛融に手紙を送り、共同で敵を討ち破ろうと計画し、諸葛融は同意したが、諸葛融は約束を守らず、結果王昶を取り逃がすことになり、元から良くなかった諸葛融・諸葛恪と施績との仲は、この件によってさらに悪くなった。 孫権が死んた後に、奮威将軍に任ぜられた。諸葛恪は淮南の征伐に向かった時に、諸葛融に仮節を授け、軍を率いて沔水に入らせ、西方の曹魏の軍隊を迎撃させた。 諸葛恪が孫峻に政変で誅殺されると、無難督の施寛は命を受け、施績、孫壱、全煕らの軍を動かして、諸葛融を捕えるべく派遣させた。諸葛融は急に軍隊が派遣されたのを耳にして、驚き慌ててなすすべを知らなかった。派遣された軍が到着して城を包囲されると、諸葛融は毒薬を仰いで自殺し〔虞溥『江表伝』によると、金印の亀型の取っ手を削り、その金粉を服して死んだとある。〕、3人の息子もみな殺された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諸葛融」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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