|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 講談 : [こうだん] 【名詞】 1. story-telling ・ 雑 : [ざつ] 1. (adj-na,n) rough 2. crude ・ 雑誌 : [ざっし] 【名詞】 1. journal 2. magazine 3. periodical ・ 誌 : [し] 1. (n,n-suf) records 2. document 3. magazine
講談雑誌(こうだんざっし)は、博文館が発行した大衆文学雑誌。1915年(大正4年)創刊。1954年(昭和29年)に廃刊。 誌名は、かつて講談速記者今村次郎の主宰していた『講談雑誌』から譲り受けた。 ==歴史== 1911年(明治44年)に講談社から書き講談の雑誌『講談倶楽部』が創刊されて好調で、次いで1912年創刊の『講談世界』なども人気を得ていたのに続いて創刊された。編集長には、博文館社員で当時26歳の生田調介(蝶介)が就いた。 1919年に白井喬二が持ち込んだ原稿「怪建築十二段返し」は好評で、続いて作品を発表し、1922年に連載した「神変呉越草紙」は芥川龍之介らにも高く評価された。次いで生田の早稲田大学時代の旧友で、戯曲作家を目指していたがバセドー氏病を患って郷里の長野に帰っていた国枝史郎に、髷物小説を書かないかと依頼し、信濃の伝説、伝承を調べていた国枝による「蔦葛木曽桟」が連載された。彼らは人気作家となり、いわゆる伝奇小説の興隆の最初となった。 1924年に目次欄に生田が書いた「見よ大衆文芸の偉観」というキャッチフレーズは、「大衆文芸」という言葉が用いられた最初で、その後白井喬二らのグループ二十一日会の同人誌の名前『大衆文藝』にもなり、この言葉が世間に流布されるようになって、後の大衆小説の語に繋がった。 1926年にはやはり生田の早稲田大学同窓である三上於菟吉が、翻案小説を連載。 生田調介は1926年に辞して小説執筆に転向し、「島原大秘録」などを残した。生田に見いだされた中には、挿し絵画家の岩田専太郎もいた。 1935年に編集長となった乾信一郎は、転地療養中の横溝正史に、捕物帖執筆を勧め、1937年に「不知火捕物双紙」、1938年に「人形佐七捕物帳」を連載した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「講談雑誌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|