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謝国明(しゃこくめい、生年未詳 - 建長5年(1253年)5月以前)は鎌倉時代中期の貿易商人。南宋人。杭州臨安府出身。博多綱首。(博多綱首とは、博多の唐房に住み、船を所有して日宋貿易に従事した宋人のこと)。博多の伝承では、年越し蕎麦や鍼の元祖と伝えられる。 建長4年7月12日の『関東御教書』には宗像大社の社領であった小呂島に関して、謝国明が妻の地頭を名乗って領有権を主張した〔『日本海事研究』〕ことで宗像大社と領地争いになり〔高田茂廣 「島の史跡めぐり」 西区地域振興事業推進委員会 編・福岡市西区役所 監修『福岡史跡ガイド 西区は歴史の博物館』 海鳥社 1995年 ISBN 4-87415-139-6〕、宗像社雑掌が鎌倉幕府に社役対捍を訴え、幕府が謝国明を戒告処分としたことが記録されている〔「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典40 福岡県』 角川書店 ISBN 4-04-001400-6 1988年〕(その後、宗像大社の小呂島所有が保障されている)。 櫛田神社がある櫛田に私邸があった。 禅寺の承天寺の建立に尽力し、南宋の宗教文化を博多に輸入している。箱崎宮領の筑前国那珂郡の野間・高宮・平原の土地を買い、承天寺に寄進した。承天寺に入室した円爾が南宋で修行した径山が火災で焼失すると、円爾は謝国明に径山復興を依頼し、謝国明は材木1,000板を中国に送っている。 博多の伝承、及び「謝国明之碑」では弘安3年(1280年)10月7日に88歳で死去したとなっているが、建長5年(1253年)5月3日に六波羅探題北条長時が記した『六波羅書下』では「遺領」「遺跡」「後家尼」という表現が使われており、その時点で既に死去していたものとされる。承天寺にある墓の跡と伝えられる場所には楠の大木がある。 == 参考文献 == 〔 * 佐伯弘次『日本の中世〈9〉 モンゴル襲来の衝撃』 中央公論新社 2003年 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「謝国明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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