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護国丸(ごこくまる)は、大阪商船が南アフリカ航路へ投入するために建造した貨客船のうちの1船。貨客船として使用されないまま日本海軍に徴用され、太平洋戦争では特設巡洋艦となるが事実上輸送船として運用される。のちに正式に特設運送船に転じたが、1944年(昭和19年)11月10日に潜水艦の雷撃に遭い沈没した。 ==艦歴== 大阪商船が南アフリカ航路へ投入する初めての新造船として計画、建造された報国丸および愛国丸に続いて建造され、当初は「興国丸」と命名されていた〔#写真週報第124号p.15〕。しかし、発音が「こうこくまる」では「ほうこくまる」と紛らわしいことから、建造中に「護国丸」に改められた〔。優秀船舶建造助成施設の対象となり、建造費用の補助を受けている。建造期間が1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃による開戦をまたいだことにより、本来の貨客船として商業航海を行うことはかなわず、報国丸および愛国丸とは姿を大幅に改めて竣工することとなった。具体的には、デリックポストを2つ減らして2基とし、装飾窓はほとんど閉鎖、客室も大広間に統一された〔。進水式の写真ではデリックポストは3基以上あり、進水式より後に2基に減じられた。 護国丸は竣工後昭南(シンガポール)に進出し、ここで愛国丸および特設巡洋艦清澄丸(国際汽船、8,613トン)と合流して、第五師団(山本務中将)の一部をラバウルへ輸送することとなった。12月2日、昭南を出港し12月12日にラバウルに到着するも、輸送した部隊もろともマダン、ウェワク攻略の「ム号作戦」にそのまま転用される〔#木俣軽巡pp.350-351〕。12月13日付で第八艦隊(三川軍一中将・海兵38期)の指揮下に入り〔#八艦1712p,46〕、12月16日にラバウルを出撃〔#木俣軽巡p.351〕。軽巡洋艦天龍と清澄丸はウェワクに、護国丸は愛国丸とともにマダンに向かった〔。部隊は12月18日からB-17、B-24の爆撃を受け続け、午後にいたり爆弾1発が命中して破孔を生じさせ、前部デリックが使用不能となる被害を受けた〔#外南洋部隊(1)pp.40-41〕〔#外南洋部隊(2)p.28〕。夜に入るとアメリカの潜水艦アルバコア (''USS Albacore, SS-218'') の雷撃で天龍を失うものの、マダンへの部隊上陸に成功して12月20日にラバウルに帰投〔#外南洋部隊(1)pp.41-42〕。その後、日本本土に帰投した。 1943年(昭和18年)に入って早々、護国丸は新たな輸送作戦を行う。ニューギニアの戦いに投入される第二十師団(青木重誠中将)を輸送する丙一号輸送において単独で輸送作戦に従事し、1,654名の人員とおよそ4,000梱の物資を輸送して1月12日に釜山を出撃し、ウェワクに向かう〔#丙号輸送部隊p.45,51〕。1月17日に雷撃を受けるも被害なく〔#丙号輸送部隊pp.31-32〕、1月17日から19日までパラオに停泊ののち、1月21日にウェワクに到着〔#丙号輸送部隊p.45〕。5時間半で揚陸作業を終えた護国丸は、1月27日に佐世保に帰投〔#丙号輸送部隊p.48,51〕。間髪いれず丙三号輸送にも参加し、青島に回航されて第九戦隊(岸福治少将・海兵40期)の軽巡洋艦、大井および北上、特設運送艦讃岐丸(日本郵船、9,246トン)および相良丸(日本郵船、7,189トン)とともに第一輸送隊を構成し、第四十一師団(阿部平輔中将)主力をウェワクまで輸送した〔#丙号輸送部隊p.8,46〕。しかし、途中のパラオで編成替えが行われ、護国丸は愛国丸および清澄丸とともに第二輸送隊を編成〔#丙号輸送部隊pp.39-40, p.46〕。2月19日、第二輸送隊はパラオを出港してウェワクに向かうが、環礁外に出たところでアメリカの潜水艦ランナー (''USS Runner, SS-275'') の魚雷攻撃を受けるも、水上偵察機の対潜攻撃によりランナーを損傷させて事なきを得た〔#丙号輸送部隊pp.40-41〕〔#木俣軽巡p.362〕。第二輸送隊は2月22日にウェワクに到着し、物件を陸揚げして任務を完了〔#丙号輸送部隊p.46〕。この時点で全ての輸送作戦は終了し、護国丸はスラバヤに向かった〔#木俣軽巡p.363〕〔#丙号輸送部隊pp.43-44, p.46〕。スラバヤ方面や南洋方面でも兵員およい物資輸送に任じた〔。 秋に入り、護国丸は第十七師団(酒井康中将)をラバウルに輸送する丁二号輸送に水上機母艦「秋津洲」、清澄丸および特設潜水母艦「平安丸」(日本郵船、11,616トン)などとともに加わり、9月24日に上海を出撃〔#護国丸1809pp.14-15〕〔#木俣軽巡p.497〕。この間の10月1日付で特設運送船に類別変更される〔#護国丸1810p.3〕。トラック諸島を経て10月5日から6日までラバウルに停泊〔#護国丸1810pp.3-4〕。任務終了で呉淞に戻ったあと、今度は第十七師団の残余兵力を輸送する丁四号輸送に清澄丸および第十四戦隊(伊藤賢三少将・海兵41期〔#木俣軽巡p.468〕)軽巡洋艦那珂と五十鈴と第二輸送隊を編成して参加〔#護国丸1810pp.19-20〕〔#木俣軽巡p.504〕。10月21日に上海を出撃後〔#護国丸1810p.8〕、アメリカの潜水艦シャード (''USS Shad, SS-235'') の魚雷をかわし〔#護国丸1810p.9〕、トラック諸島を経てラバウルに向かうが11月3日に空襲を受け清澄丸が航行不能となる被害を受けた〔#護国丸1811pp.3-4〕。護国丸は被害なく11月4日にラバウルに入港し、翌11月5日のラバウルへの空襲にも遭遇するが、ここでも被害はなかった〔#護国丸1811pp.5-6〕。二度の任務を終えて呉に帰投後、呉海軍工廠で特設巡洋艦としての兵装や装備品などを取り外す転換工事を行い、護国丸は名実ともに特設運送船となった〔#護国丸1811pp.31-32〕〔#護国丸1812pp.5-6〕。 護国丸の特設運送船としての初任務は、マーシャル諸島方面への輸送任務が予定されていた〔#護国丸1812p.13,25〕。セメントなどの資材を搭載して12月27日朝に、特設運送船君川丸(川崎汽船、6,863トン)とともに由良内を出港して横須賀に向かう〔#護国丸1812p.7,13,22〕。しかし、昼ごろに潮岬沖を東航中、君川丸がアメリカの潜水艦トートグ(''USS Tautog, SS-199'') の雷撃により発射された6本の魚雷のうち1本が命中し大破する被害を受けて後落〔#護国丸1812p.24〕、護国丸はそのまま航行を続けたが、深夜になってアメリカの潜水艦ガーナード (''USS Gurnard, SS-254'') の雷撃に遭った。ガーナードは魚雷を4本発射し、うち1本が護国丸の一番船倉に命中した〔#護国丸1812p.8 pp.25-26〕〔#SS-254, USS GURNARDpp.196-197〕。護国丸はそのまま航行を続け、翌12月28日に横須賀に入港した〔#護国丸1812p.8,26〕。護国丸は1944年(昭和19年)2月から5月までの間は浅野船渠で修理が行われ〔#護国丸1902p.32〕〔#護国丸1905p.5〕、修理を終えたあとは門司に回航された。 6月20日、護国丸はヒ67船団に加入してマニラに向かった〔#駒宮p.195〕。6月30日にマニラに到着後ヒ67船団から分離し、ダバオおよびサンボアンガへの輸送任務に就く〔#護国丸1906p.42〕〔#護国丸1907pp.3-7〕。7月25日にマモ01船団に加入して高雄を経て門司に帰投し〔#護国丸1907p.7〕〔#護国丸1908pp.32-33〕〔#駒宮p.217〕、8月25日にはヒ73船団で南に下る〔#護国丸1908pp.36-38〕〔#駒宮p.238〕。9月1日にヒ73船団と別れてマニラに入港し〔#駒宮p.239〕、荷役を終えたあと特設運送船香久丸(大阪商船、8,417トン)、陸軍特殊船「吉備津丸」(日本郵船、9,575トン)とマモ03船団を編成して9月10日にマニラを出港する〔#駒宮p.246〕。途中、ヒ72船団と合流して門司に向かうも、ヒ72船団は9月12日にアメリカの潜水艦グロウラー (''USS Growler, SS-215'') 、パンパニト (''USS Pampanito, SS-383'') 、シーライオン (''USS Sealion, SS-315'') のウルフパックにつかまり多大な被害を出した。船団は三亜に回航の上顔ぶれを改めて9月16日に出港するが、9月20日にB-24の攻撃を受けて香久丸、特設運送船浅香丸(日本郵船、7,398トン)、海防艦御蔵とともに被弾損傷し、四番船倉と左舷側推進軸が損傷して最大でも11ノットの速力しか出なくなった〔。護国丸は何とか高雄に到着して仮修理ののち基隆に回航され、基隆でも待機を兼ねて修理が続行される〔#野間pp.422-423〕〔#響の栄光p.356〕。その基隆には駆逐艦の響がいた。もっとも、9月6日に琉球嶼沖で触雷して損傷し、左営と馬公で応急修理が行わて基隆に回航されていたが、天候不順により乗員に赤痢患者が発生しているという有様だった〔#響の栄光pp.321-322, p.356〕。護国丸はそのような状況の響の護衛を受け、11月7日に相前後して日本本土に向かうことになったが、響艦内で赤痢がいっそう蔓延して、一刻も早く佐世保に急がなければならなくなる事態が訪れる〔〔#野間p.423〕。響と別れた護国丸は単独航行となった。 11月10日未明、の古志岐島近海を単独航行中の護国丸をアメリカの潜水艦バーブ(''USS Barb, SS-220'') がレーダーにより探知する〔#SS-220, USS BARB, Part 1p.287〕〔#SS-220, USS BARB, Part 2p.2〕。バーブは全速力で接近し、潜航の上3時32分に魚雷を3本発射した〔#SS-220, USS BARB, Part 2p.7〕。バーブの魚雷は2本が護国丸の機関室と二番船倉および三番船倉の間に命中し、護国丸は左に傾いた〔〔。バーブは浮上し、これを見た護国丸は備砲で反撃するが、バーブは3時53分と3時54分にそれぞれ魚雷を1本ずつ発射して潜航した〔〔#SS-220, USS BARB, Part 1p.288〕。しかしこの2本の魚雷は命中しなかった〔。4時9分、バーブは四度目の攻撃で魚雷を1本発射し、バーブの魚雷は護国丸の四番船倉に命中し〔〔〔、護国丸は間もなく船首を上げて沈んでいった〔〔。護国丸の乗員、兵員、便乗者合わせて324名が戦死し〔、護国丸は1945年(昭和20年)1月10日に除籍および解傭された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「護国丸 (特設巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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