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谷 啓(たに けい、1932年2月22日 - 2010年9月11日)は、日本の俳優、コメディアン、トロンボーン奏者。ちなみに出生名は、渡部 泰雄(わたべ やすお)。 東京府荏原郡東調布町(現・東京都大田区田園調布)出身・三鷹市大沢に居住していた。渡辺プロダクション所属。中央大学経済学部中退〔『七人のネコとトロンボーン』p.56によると、有楽町の日本劇場にトロンボーン奏者として出演していた時、舞台と舞台の間に大学の月謝を払おうとして現金持参で中大駿河台校舎まで飛んでいったが、月謝を納める学生たちが行列しており、列に並んでいては次の舞台に間に合わなかったため「カネを払うのに行列まですることはねえだろう」と思って日劇に戻り、そのまま除籍になったという。〕、中央大学学員会三鷹支部会員。日本トロンボーン協会名誉会員。 写真家の吉田ルイ子は従妹にあたる。長男の渡部泰裕は映像ディレクター。 == 来歴・人物 == 日新製鋼に勤めていた父の転勤により、生後すぐ広島に転居〔『「家」の履歴書』 光進社 2001年、104-106頁〕。5歳までに東京に戻り、小学校から横浜へ移り六浦尋常小学校へ通う〔『「家」の履歴書』、104-106頁〕。子供のころには幻覚や幻聴の症状があり、夜に月が2つ見えたり、天井が膨らんで落ちてくるように見えたり、夜中に『ゴムまりを突く音』や『泥棒の足音』が聞こえたりした。非常な恥ずかしがりやながらサービス精神のある子供で、「お手伝いさんを驚かそう」と硬くなった犬のフンをかじったことがある。また、小学生時代は、級友の前で落語を演じていた。中学入試に失敗したため、国民学校高等科に1年通う。この不合格の際も「落ち込んでいることがばれないよう」口笛をふきながら上機嫌で帰ってきたという。その後、軍需工場で働く。 1945年4月に旧制逗子開成中学校に進学。入学式の時のブラスバンドの演奏でトロンボーンに出会い、一目惚れして、当時の音楽部(現:吹奏楽部)に入部。しかし、トロンボーンという名前を知らず、また、あの楽器はなんというのかとも聞けず、担当楽器を決める際に適当にチューバを希望し担当した。8月に敗戦を迎えると、進駐軍がジャズを持ち込み、それを聞いて「こんなに楽しい音楽があったのか」と夢中になる。また、大量に上映されたアメリカ産のコメディ映画にも夢中になる。 逗子開成高校時代から、キャバレーでバンドマンのアルバイトをしていた。逗子開成高校卒業後、関東学院大学に進むが〔『新撰 芸能人物事典 明治~平成』 〕、1年後、高校時代の音楽仲間を追って、中央大学経済学部経済学科に進学。音楽研究会に所属し、バンドを組んでキャバレーや米軍向けに演奏していた。中央大学音楽研究会時代の後輩には高木ブーがいる。一方、喜劇俳優にもなりたくて、劇団民藝や俳優座を訪ねたが相手にされなかった。中大在学中に、耳の肥えた米軍将校相手に培われた確かな腕前とコミカルな演奏が原信夫に注目され、シャープス&フラッツに参加。本格的な演奏のほかに、トロンボーンのスライドを足で動かして吹くなどのコミカルな演奏も行う。「スイングジャーナル」誌上でトロンボーン奏者として上位にランキングされるようになる。 芸名の由来は、アメリカの名コメディアン、ダニー・ケイを日本語風にしたもの。名乗り始めた当初は、「ダニー・ケイを敬う」という意味で『谷敬』だったが、ファンから「谷敬という字はいけません。なぜかというと、谷底でいつも敬っているんじゃ、ずっと底にいることになるから」という指摘を受け〔五歩一勇『シャボン玉ホリデー スターダストを、もう一度』p.152(日本テレビ放送網、1995年)〕、『谷をひらく』という意味の『谷啓』と改名した。ただし、髪型や芸風は、『アボット&コステロ』のルー・コステロに似せている。『クレージーキャッツ』の他のメンバーはみな、ミュージシャン志望で役者になろうとは全然思っていなかったが、ただ一人、谷だけがコメディアン志望でもあった。 1953年、フランキー堺から「スパイク・ジョーンズのような音楽をやろう」と誘われ、谷もスパイク・ジョーンズの大ファンだったため、フランキー堺とシティ・スリッカーズに参加し、音楽ギャグを盛んに行う。だが、フランキーが日活に引き抜かれ、フランキー不在のシティ・スリッカーズは『普通のジャズバンド』になってしまう。そのため、同じバンドの植木等の紹介でハナ肇に会い、「ハナ肇とキューバン・キャッツ」に1956年2月に移籍。のちにバンド名はクレージーキャッツと変わる。ジャズ喫茶に出演し、多彩なギャグで人気を博す。 1959年の『おとなの漫画』以降、コメディアンとして多くのTVバラエティ番組に出演。「ガチョン」(当時は伸ばさなかった)「びろーん」「アンタ誰?」「ムヒョーッ」といった各種のギャグで不動の人気を獲得した。「谷だァ!」というギャグも一時期使っていたが、これは当時の流行語にもなった青島幸男の「青島だァ!」に対抗する形で発せられたもの。 俳優としてもテレビドラマや映画に多数出演している。1975年には、かねてからの夢だった本格的ミュージカル、森繁久彌主演の『屋根の上のバイオリン弾き』に出演、肉屋のラザール役を演じ、4年の間出演した。演出家の福田陽一郎の『好みの役者』で、福田が演出する舞台に多数出演している。 1975年ごろから、自身のバンド『谷啓とザ・スーパーマーケット』を結成し活動していた(結成時には、キーボード担当として、若き日の近田春夫も参加していた)。またハナ肇が晩年に結成したバンド『ハナ肇&オーバー・ザ・レインボー』(ドラム:ハナ肇、トロンボーン:谷、ピアノ:宮川泰、トランペット:中川善弘、ベース:江藤勲、テナーサックス:稲垣次郎)にも参加し、ハナが亡くなる直前まで活動していた。 晩年はバラエティ番組への出演がめっきりと減ったが、1990年代後半にはスーツにサングラス姿で、『笑う犬の冒険』のオープニングMCを務めた。 2006年、クレージーキャッツの結成50周年を記念した、松任谷由実とのコラボレーション・シングル『Still Crazy For You』では松任谷のデュエット・パートナーを務め、クレージー名義のシングルでは初めて、単独でフィーチャーされた。 また2006年から2009年まで『美の壺』(NHK教育テレビジョン)に出演、飄々としたご隠居の主人として番組の案内役を務めた。 2008年ごろから体調を崩し始め、2009年3月までにレギュラー番組をすべて勇退し、療養生活をはじめていた。ハナ肇の付き人を務め、長く親交があったなべおさみによると「2008年ころから(谷について)物忘れがひどくなっていた。今年(2010年)春に見舞いに訪れた際にはもう私(なべ)のことが分からなかったこともあった」と語り、晩年の谷に認知症の傾向があったことを示唆している。 2010年9月10日、私邸の階段から転落し、頭などを強打したために杏林大学医学部付属病院に搬送されたが、翌11日午前5時7分脳挫傷のため死去。。葬儀は密葬として執り行われ、親族以外はクレージーキャッツのメンバーの犬塚弘、桜井センリが参列した。戒名は『玄妙院殿谷啓日雄大居士』(げんみょういんでんこくけいにちゆうだいこじ)で、芸名の『谷啓』と本名から『雄』の字をとっており、「奥深い悟りがあり一生懸命精進し大きな仕事を成し遂げた」という意味が込められている。没後、2010年10月2日号の「週刊現代」で、妻・和子が認知症の症状出現の事実とその後亡くなるまでの経緯について、詳細を明らかにしている。遺作は2009年に出演した「釣りバカ日誌20 ファイナル」)〔映画本編には登場せず、カーテンコールのみの出演だが、直後のくすだま割の「納竿」のシーンには参加していない。但し、エンドクレジットには名前は記載されている。〕。 2010年9月20日、不忍池水上音楽堂で開催された「第3回したまちコメディ映画祭in台東」のクロージングイベントで谷のこれまでの業績を讃えて『第3回コメディ栄誉賞』授賞式が行われた(なお、生前から受賞が決定していた)。 谷の死去を受け、NHK Eテレでは9月26日深夜に『美の壺』の第2回「盆栽」(2006年4月14日放送)を、NHK総合テレビジョンでは10月24日に『NHKアーカイブス 谷啓 〜飄々と時代を駆け抜けた名脇役〜』をそれぞれ追悼番組として放送した。 2010年11月11日には関係者対象の「お別れの会」がザ・プリンスパークタワー東京で行われた。徳光和夫が司会を担当し、約800人が参列した。芸能人では西田敏行、松任谷正隆・由実夫妻、桜井センリ、青木さやか、アグネス・チャン、浅香光代、いしのようこ、内田裕也、加藤和也、上川隆也、加山雄三、グッチ裕三、小松政夫、小柳ルミ子、島崎俊郎、城田優、せんだみつお、高見恭子、地井武男、仲本工事、中山秀征、鳩山邦夫、ビビる大木、布施明、藤村俊二、松本明子、ミッキー・カーチス、三宅裕司、恵俊彰、モト冬樹、山田邦子、山田洋次、アンガールズ、ネプチューン、我が家らが参列しその死を悼んだ。参列者を代表して犬塚弘が来賓あいさつを行い、天を仰ぎながら「みんな! 俺と桜井(センリ)さん2人だけになったんだよ。あと2〜3年たったらみんなのところに行くから、(その時は)向こうでクレージーキャッツを再開しよう。みんな、待っててくれよ!」と呼びかけ、メンバー間の強い絆を印象付けた。 2010年11月19日、第52回日本レコード大賞で特別功労賞を受賞。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「谷啓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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