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谷地城(やちじょう)は、出羽国村山郡谷地(山形県西村山郡河北町)にあった日本の城である。 == 概要 == === 歴史 === 谷地城の創建は弘治年間(1555年~1558年)中条長昌によって行われたとされる。 中条氏(ちゅうじょうし)は武蔵七党横山党の一族であり、鎌倉幕府の成立に貢献した中条家長を祖とする。評定衆や尾張守護を務め出羽国小田島荘の地頭職を得る〔中条義季、「封内風土記」刈田郡宮邑疱瘡神社条『角川日本地名大辞典(旧地名編)』小田島荘〕。小田島荘に入った中条氏庶流は小田島氏を名乗り〔「吾妻鏡」建長3年8月15日条。小田嶋五郎左衛門尉義春。〕南北朝時代を迎える。南朝に与した小田島氏は結城氏の配下に入って小田島荘の代官となったが、結城氏が北朝に寝返ると程なく叛旗を翻し、小田島荘を掌握した〔『角川日本地名大辞典(旧地名編)』小田島荘〕。しかし、北朝の斯波兼頼が出羽に下向し、小田島氏は領地の大半を捨て谷地へ閉塞した〔系図によれば長国のころ谷地に入ったという〕。 長国-長政-長衡-長胤-長昌と北寒河江荘を支配するが長昌で断絶する。その後永禄・元亀(1558年~1573年)頃には谷地北方(村山市白鳥)の国人領主白鳥氏が勢力を扶植し、天正10年(1582年)ごろまで白鳥長久が城主として城郭を整備した〔『寒河江市史 上巻』p.763〕。天正12年(1584年)城主長久が最上義光に誘殺されると最上氏の攻撃を受けて落城、最上氏配下斎藤光則(伊予守)が在城した〔『寒河江市史 上巻』p.766〕。 慶長5年(1600年)慶長出羽合戦では庄内から侵攻した上杉軍の攻撃を受け9月18日までに落城、下秀久の支配を受ける。10月1日関ヶ原の敗報に触れた本隊が撤退するも下秀久は籠城し、7日(11日とも)間の籠城戦の末降伏した〔『寒河江市史 上巻』p.948〕。 その後最上氏蔵入地として支配されたが、元和8年(1622年)最上氏の改易により廃城となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「谷地城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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